ルカによる福音書7章31–35節
31 「ところで、今の時代の人々を何に喩えようか。 何に似ているのだろうか。 それは広場に座り、互いに呼びかけ合う子供に似ている。 32 『ぼくらが笛を吹いたのに、 君たちは踊ってくれなかった。 弔いの歌を歌ったのに、 泣いてくれなかった』。 33 というのは、洗礼者ヨハネが来て、パンも食べず、ぶどう酒も飲まないと、あなた方は、『あれは悪霊に憑かれている』と言う。 34 また人の子が来て食べたり飲んだりすると、『見よ、あれは大食漢、大酒飲みで、徴税人や罪人の仲間だ』と言う。 35 しかし、知恵の正しさは、知恵のすべての子らによって証明される」。
分析
イエスが「今の時代の人々」を非難する短い比喩によって構成された断章ですが、その核心には、啓示に対する拒絶と、信仰の硬直化への深い嘆きと警告が込められています。
冒頭の「何にたとえようか?」という反語的問いかけは、イエスが民の霊的無感覚と頑なさを前にして、適切な喩えを探しあぐねているような調子を含んでいます。これは単なる説明的な導入ではなく、神の側の無力感、あるいは痛切な憐れみを帯びた語りの始まりでもあります。
ここで登場するのは、広場に座って互いに呼びかけ合う子どもたちの姿です。「ぼくらが笛を吹いたのに、踊ってくれなかった」「弔いの歌を歌ったのに、泣いてくれなかった」——この二重の嘆きは、喜びにも悲しみにも応じようとしない無反応な者たちの姿を描いています。神が喜びをもって近づいても、人は踊らず、悲しみをもって呼びかけても、泣かない。これは、神の語りかけに対して心を閉ざした霊的無関心の譬えです。
続く33節と34節では、この比喩が現実に適用されます。洗礼者ヨハネの厳格な禁欲的ライフスタイルには「悪霊につかれている」と批判し、イエスの開かれた交わりと食卓の姿勢には「大食漢、大酒飲み、罪人の仲間」と悪評を与える。つまり、どちらのやり方でも受け入れようとしない人間の頑なさがここに示されているのです。
35節でイエスは「知恵の正しさは、知恵のすべての子らによって証明される」と語ります。これは、「結果が真実を明らかにする」「真の知恵は、それに生きる者たちの姿を見れば分かる」という、神の働きが歴史と実践によって証明されていくという原則の確認です。つまり、啓示を拒む人々がどう言おうとも、神の知恵はそれに応答する者の実によって正当性を証明していくのです。
神学的ポイント
このテキストの神学的核心は、「人間の反応こそが、神の啓示の是非を裁くのではなく、むしろ人間の心を映し出す鏡となる」という視点です。イエスはここで、「拒否される神」という逆説的現実を前提に語っています。神はヨハネにおいてもイエスにおいても、まったく異なる形で語りかけられたにもかかわらず、人々はどちらも拒んだ。それは神の失敗ではなく、人間の心の閉鎖性を示しているのです。
ここで興味深いのは、「知恵」が擬人化されて語られている点です。これは旧約の箴言などに見られる神の知恵(ソフィア)を背景にしており、知恵とは単なる理論ではなく、生きて働く神的な人格性を帯びた現実であることを示しています。そしてその知恵は、「その子ら」、すなわちそれを受け取り、それに従って生きる者たちによって可視化されていくのです。
またこの箇所は、「反応しない信仰」がいかに深刻な問題であるかを浮き彫りにします。喜びにも悲しみにも反応しないということは、単に無関心というよりも、魂の感性そのものが麻痺してしまっている状態を意味します。それは祈ることも賛美することも悔い改めることもできない、信仰の死の始まりです。
講話
このたとえは、時代を超えて、私たち現代の信仰にも鋭く切り込んできます。神は今も語りかけておられます。喜びによって、悲しみによって、御言葉によって、出来事を通して。しかし、私たちは本当に応答しているでしょうか?
現代の教会やキリスト者は、ヨハネのような厳格さにも、イエスのような交わりにも、時に拒否感を示します。厳しすぎれば「時代錯誤」、自由すぎれば「世俗化」と評し、どんなスタイルの信仰も自分に合わなければ拒む。まるで広場で拗ねて動かない子どものように、「自分好みの救い主」を待ち続けるのです。
しかし、神の働きは人間の期待を超えて訪れます。時には荒野の叫びとして、時には食卓の笑い声として。神の語りかけは私たちに応答を求めており、無関心や批評ではなく、心の震えと行動を求めているのです。
「踊ってくれなかった」「泣いてくれなかった」——この神の嘆きは、今日も私たちの沈黙に対して響いています。イエスは、応答する者を探しておられます。形式やスタイルではなく、神の呼びかけに耳を傾け、魂で応答する者を。
そして私たちがその知恵に生きるならば、私たち自身の姿が、「知恵の正しさを証明する子ら」となります。祈ること、悔い改めること、仕えること、赦すこと——そうした小さな応答の積み重ねが、この時代の霊的沈黙に対する、最も力強い証言となるのです。