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みことばの響き

目立たない中での美しさ 待降節第3主日(ヨハネ1・6~8、19~28)

 冬になると、北極に近いほど日照時間は短いものです。かれこれ30年前、アイルランドで冬を過ごしたことがあります。12月も後半に入り、冬至のころになると、朝は8時30分頃に日の出となり、午後3時30分くらいには日没。日本でも冬は日照時間が短いものですが、アイルランドではそれ以上だと痛感したことがあります。冬の間、暗い時間が長いほど、春の待ち遠しさ、太陽の有難さが感じられるのではないでしょうか。

 今日のみことばの中に「彼は光ではなく、光について証しをするために来た」(ヨハネ1・8)とあります。光そのものはキリスト。キリスト自身「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩まず、命の光を持つ」(ヨハネ8・12)と。ヨハネはあくまで光を証しし、準備する人です。

 ある幼稚園でクリスマス会に招かれ、話を頼まれた時のこと。年少組の子供劇が終わった後で子供たちに話をし、「クリスマスに出てくるキリストはどんな人でしょうか」と尋ねたら、「もみの木」「光」「プレゼント」「パーティー」などなど。「そうね、キリストは光だよね」というと、一人の子供が「ピカチュー」と。子供の世界は大人の発想と全然違うものです。

 光は目には見えないけれど、人間生活にとって不可欠なものです。その光を証するために来たのが洗礼者ヨハネです。彼はとても謙虚な方でした。「わたしはその履物のひもを解く資格もない」(ヨハネ1・27)と。

 フランシスコ・ザビエルといっしょに日本にやってきたフェルナンデス修道士がいます。ザビエルは日本でとても知られていますが、フェルナンデスはほとんど知られていません。しかし、日本の教会がキリシタン時代に発展したのも、彼が日本に残り、一生懸命宣教したからだとも言えます。洗礼者ヨハネのように、目立たない中に素晴らしい働きがあります。

 クリスマスを前にして、光であるキリスト、光を準備する洗礼者ヨハネの中に、人間の思いを越えたぬくもりや豊かさを感じます。

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