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月刊澤田神父

「月刊 澤田神父」2022年9月号(パウロのエフェソ教会への別れの言葉)※字幕付き

パウロの宣教活動
 パウロの宣教活動は、3回なされたと考えられています。これは使徒言行録の記述によるものです。しかし、使徒言行録の描き方を見ても、実際はこうした区分の仕方が正確かどうかは分かりません。使徒言行録の記述とパウロの手紙の記述とは違います。
 そして、使徒言行録でも2回目の宣教旅行と3回目の宣教旅行との区分はあいまいです。「パウロはカイサリアに上陸すると、教会に挨拶するためにエルサレムに上り、それからアンティオキアに下った。しばらくアンティオキアに滞在した後、パウロはまた出かけて、ガラテヤ地方およびフリギアを相次いで巡り、すべての弟子たちを力づけた」(使徒言行録18・22-23)。アンティオキア教会への報告やアンティオキアのキリスト者たちの反応は記されていません。パウロとその一行はすぐに宣教の旅に出発したのかもしれません。つまり、宣教の途上、アンティオキア教会に立ち寄ったとも理解できる描き方です。そうすると、ここでパウロの宣教旅行を区切るのは正確でないかもしれません。
 いずれにせよ、パウロはバルナバと別れて宣教に出発した後、かなりの年数をかけて宣教旅行をおこなったようです。そして、使徒言行録によれば、パウロはある時期から、自分の行く末を聖霊の導きによって確信し始めたようです。使徒言行録は、パウロの言葉を次のように記しています。「今、わたしは霊に縛られてエルサレムに赴こうとしています。そこでわたしの身にどんなことが起こるか、何も分かりません。ただ、聖霊が至る所の町々で、わたしに明らかに告げているのは、投獄と艱難がわたしを待ち受けているということです」(使徒言行録20・22-23)。そして続けます。「わたしは自分の走るべき道のりを走り尽くし、主イエスから受けた務め、すなわち、神の恵みの福音を証しする務めを全うすることさえできれば、この命さえいささか惜しいとは思いません」(20・24)。パウロは死を覚悟しています。

エフェソの教会の長老たちとの別れ
 そこで、パウロはエルサレムに向かう前にエフェソの教会の長老たちと別れのあいさつをすることを望みます。船旅の予定が合わなかったのでしょう。パウロは、立ち寄った港町ミレトスにエフェソの教会の長老たちを呼び寄せます(20・17)。そこで、パウロは自分の思いを述べるとともに、エフェソの教会の長老たちに教えを述べます。このやり取りはパウロとエフェソの教会の長老たちのかかわりの深さを示すものですが、今回は、パウロが彼らに語った一つの表現を取り上げたいと思います。パウロは自分の務めをゆだねるにあたって言います。「今、わたしはあなた方を、神とその恵みの言葉に委ねます。このみ言葉には、あなた方を造りあげ、すべての聖なる人々とともに受け継ぐ遺産をあなた方に与える力があるのです」(20・32)。
 あなた方を神にゆだねるとともに、神の言葉にゆだねると、パウロは言います。わたしは、誰かを任命したり、福音宣教をゆだねる時に、こういう言い方ができているかな、と感じます。パウロが言うように、「あなたを神の言葉にゆだねます。宣教とはそういうものですよ」と言うよりは、「神の言葉をあなたにゆだねます。それを宣べ伝えなさい」と言ってしまっているのだろうな、と感じるのです。まだまだです。
 自分に何が足りないのだろうか、と考える時、この神の言葉の力への信頼が足りないのだろうな、と感じます。「このみ言葉には、あなた方を造りあげ、すべての聖なる人々とともに受け継ぐ遺産をあなた方に与える力があるのです」(20・32)。このことをどこまで信じ抜くことができているのかという点です。
 わたしたちが、そして教会が、心からこの神の言葉の力への信頼を貫くことができる時に何らかの突破口があると思いますし、その力ある神の言葉をあらゆるコミュニケーションの手段をとおして伝えていくことが、わたしたち聖パウロ修道会の使命なのだと思います。

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