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月刊澤田神父

「月刊 澤田神父」2021年12月号(クリスマスおめでとうございます)

福音書が記す主の降誕
 福音書は、主の降誕について、あまり多くのことを記していません。イエス・キリストが生まれるときのエピソードそのものを記しているのは、ルカ福音書だけです。マタイ福音書は、主の使いがヨセフに対して告げたこと、ヨセフが主の使いの言葉に従ってマリアを妻として迎え入れ、生まれた子をイエスと名づけたことを記すだけです(その後に、東方の博士たちがイエスを礼拝に来たことなどの物語は記しています)。主の降誕、すなわち12月25日の日中のミサではヨハネ福音書1章が朗読されます。しかし、ヨハネ福音書は、「み言葉は自分の民の所に来た」(1・10)、「み言葉は人間となり、われわれの間に住むようになった」(1・14)とは記しますが、イエスの誕生の様子を具体的に描くことはしていません。マルコ福音書は、洗礼者ヨハネの活動から記していて、イエスの誕生については全く述べていません。
 このため、わたしたちが思い描いているイエス・キリスト誕生の物語は、ルカ福音書の物語によっています。イエスの誕生が「夜」であったとわたしたちが理解しているのも、ルカ福音書の記述によるものです。12月24日夜から25日にクリスマスを祝うようになったのも後からのことで、イエス・キリストの誕生日がいつなのかは、わたしたちには分かりません。

「時差」の中で主の降誕を祝う
 全世界で、12月24日の夜から25日にクリスマスが祝われます。といっても、各地には「時差」があります。海外に渡航した経験のある人なら、身をもってこの「時差」を経験されたことでしょう。だから、同じ時間に全世界で同時にクリスマスを祝うわけではありません。
 わたしは1989年から1996年までの間、ローマに留学をしていました。まだ有期誓願者、神学生でした。当時はまだインターネットがほとんど普及していない時代で、国際電話はお金がかかるので、家族には手紙で近況を連絡していました。しかし、イタリア人は直接会うことで愛情を確認し合います。会えないのであれば、せめて電話で話をします。ある時、責任者から言われました。「お前は家族とうまく行っていないのか。何か問題があるのか」と。いきなりそう言われたので驚き、どうしてそんなことを言うのか逆に質問しました。すると、「お前は全く家族に電話をしないからだ」と言われました。「うまく行っているけれど、手紙のやりとりで連絡はできるから」と答えたのですが、クリスマスが近かったため、クリスマスくらいは電話をするようにと言われました。そこで、時差の問題を考えました。日本とイタリアの時差は8時間です。いろいろと考えた末、ローマの修道院では主の降誕の夜半のミサが12月24日の夜11時45分からおこなわれるため、午後11時ごろ(日本時間では朝の7時)に電話をかけることにしました。電話をとった母親はびっくりしていましたので、事情を説明しました。納得した母は、「主の降誕、おめでとう」とお祝いを言いました。そこで、つい言ってしまったのです。「こっちはまだ生まれてないよ」と。
 不思議な経験でした。同じ時を生きているのに、イエスの誕生の「時」は場所によってずれてしまうのです(わたしたちがそう祝うだけなのですが)。
 しかし、もっとグローバルな視点で考えれば、日付変更線の西にある国から始まって、まる一日かけてクリスマスの夜が祝われ続けるのです。この夜に「すべての人を照らすまことの光は世に来た」(ヨハネ1・9)ことを祝い、この「光は闇の中で輝いている」(1・5)ことを祝うのです。自分の地域だけを考えれば、この夜は数時間で終わってしまいます。しかし、世界全体を見れば、この光の夜は一日中続いて祝われるのです。
 この夜、わたしたちは身近な人たちだけでなく、全世界に思いをはせることにしましょう。自分たちの中に「光」が来られるだけでなく、本当に「闇」と思われる状況を生きている人に「光」が来てくださるように願いましょう。皆が、心から主の降誕、光の到来を祝うことができますように。

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