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カトリック入門

「カトリック入門」 第68回 小倉・大分・熊本の殉教者【動画で学ぶ】

*親の姿を見て子どもたちの信仰が育まれ、信仰が深まっていきます。小倉・大分・熊本の殉教者には、そうした親子の熱い絆に結ばれた信仰があります。

1)歩み
*1566年、ディエゴ加賀山隼人はキリシタン大名の高山右近の領地、高槻に生まれ、10歳の時に洗礼を受けます。安土のセミナリオで学んだ時期もありましたが、武士の道を選びます。
*1587年、主君の高山右近が領地をはく奪され、彼は蒲生氏郷(がもううじさと)に仕えるようになり、領主とともに松坂、会津若松へと移動します。会津若松は東北宣教の中心地となり、隼人は東北宣教の創始者となります。ところが蒲生氏郷が若くして亡くなり、今度は丹波の城主、細川忠興に仕えるようになります。熱心なキリシタン大名の黒田如水は中津において、数多くの部下たちを信仰へと導いていきますが、1600年の関ヶ原の戦いの後、如水は博多へ移り、細川忠興が中津の領主となります。隼人は中津近郊の郡奉行(こおりぶぎょう)で、農民たちの生活指導、石高の計算など、住民の生活と密接な仕事に携わっていました。彼の人間的な魅力、信徒としての証が多くの人を改宗へと導きます。
*細川忠興は中津城主を息子の細川忠利(ただとし)に譲り、忠興は小倉に新しい城を構え、隼人も忠興に従っていきました。当時、小倉には約3000名の信徒がいて、隼人は彼らの篤い信頼を受けます。隼人には3人の娘がいて、長女がみや。みやは細川家の親戚である小笠原玄也と結婚します。隼人とみやの篤い信仰に導かれ、小笠原玄也も洗礼を受けます。みやと玄也の間には9人の子どもが誕生します。

2)殉教
*1614年、徳川家康が禁教令を発令し、主君の細川忠興は家臣の隼人と玄也に信仰を捨てるように命じます。1616年に徳川家康が亡くなり、秀忠が継ぎますが、彼の時代になって禁教令が強化され、1619年には京都で52名が殉教しました。細川忠興も隼人を守ることができなくなり、彼に「信仰を捨てるように」「自分の心の中で信じればいいのではないか」と諭します。しかし、彼は主君に「信仰をごまかすことはできない。私はあなたを主君として尊敬するが、神様のことに関しては絶対に従うことはできない」と答えています。こうして隼人は1619年10月15日、小倉で殉教しました。
*この同じ日に、いとこのバルタザル加賀山半左衛門とその子ども5歳のディゴも大分の日出(ひじ)で殉教しました。
*家臣の加賀山隼人はまだしも、細川家の親戚にあたる小笠原家を簡単に処刑することはできませんでした。しかも小笠原玄也の息子たちと細川忠利とは旧知の仲。小笠原玄也の家族は郊外に追放され、農業をしながら貧しく生活していました。細川忠利も最初は彼らを黙認していましたが、1632年、三代将軍の家光が実権を握るようになり、キリシタンに対する取り締まりはかなり厳しくなりました。その当時、熊本の城主の加藤家は追い出され、細川家がそこに住むようになります。親戚関係の小笠原家も熊本へ移り、一軒の貧しい家をあてがわれ、家族と奉公人など、合わせて15人が信仰を公に守って貧しく生活していました。
 細川忠利は何度も玄也に信仰を捨てるように勧めます。
*小笠原玄也は小倉にいた時、細川忠利に一通の手紙を送っています。その中で、「将軍様が何と言おうと、私の主君である忠興様が何と言おうと、私は転びません」と記しています。
 忠利も彼らを何とか救いたいと思いますが、その時に長崎奉行所に「熊本で小笠原玄也の一家は公然と信仰を守っている」と訴人が出ます。忠利はもう守り切れなくなりました。こうして一軒の家に牢屋として入れられ、50日間過ごします。
*その間に小笠原玄也、みや、その子どもたちが書いた16通の遺書が残っています。みやの手紙は、「宗旨を変えなさいということで牢に入れられました。でも私は宗旨を変えることができませんので、このようになりました」と書いています。娘の手紙は、「お母さんが熱心だから自分たちをこのような死に持っていったと、おじさんたちはお母さんに対して怒っていますけれど、そうではありません。むしろ私が殉教したいと思ったからです」と書いています。これらの手紙から殉教をどんなに望んでいたかが分かります。
*1636年1月30日、15人は首をいっしょに切られて殉教していきました。

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