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これってどんな種?

幸せという種|諸聖人の祭日(マタイ5・1〜12a)

 私たちにとって【幸せ】とは何なのでしょう。人によって違うでしょが、家族との団欒のひと時、美味しい食事を食べている時、ゆったりとお風呂に浸かっている時など【幸せ】を感じる「ひと時」があるのではないでしょうか。「幸せ」の意味は、「その人にとって、幸運(幸福)であること。また、またその状態だ」(『新明解国語辞典』)とあります。では、洗礼の恵みをいただいている私たちにとって【幸せ】とはいったい何なのでしょうか。それは、三位一体の神との交わりのひと時、と言ってもいいでしょう。

 きょうのみことばは、「山上の説教」の中の『真福八端』と呼ばれる場面です。みことばは、「さて、イエスはこの人々の群れを見て、山にお登りになった」という言葉で始まっています。イエス様がご覧になられた「人々」とは、「(イエス様が癒やされた)さまざまな病気や苦しみを抱えた者、悪霊に憑かれている者、てんかん、中風の者など、あらゆる病人たち」(マタイ4・24〜24参照)や、イエス様の噂を聞きつけ、イスラエルの各地から集まった人々だったようです。

 イエス様は、そのような人々の群れをご覧になられて、山にお登りになられたのです。みことばは、「そして、腰を下ろされると、弟子たちが近寄ってきた。イエスは口を開き、彼らに教え始められた」とあります。このみことばの中にある「腰を下ろされ」と「口を開き」というのは、ラビがこれからの重要な教えを伝える時の仕草だったようです。イエス様は、ご自分の所に集まって来た人々を「山」に導かれ、モーセがシナイ山でおん父から【十戒】を頂いたように、集まってきた人々に重要な教えを伝え始められます。

 イエス様は、「自分の貧しさを知る人は幸いである。天の国はその人たちのものである。」と話し始められます。イエス様に従って来た人々にとってこの言葉はどのように響いたのでしょうか。彼らは、かつてさまざまな病気や苦しみを抱えていた人や、悪霊に憑かれた人たちでした。彼らは、裕福な人たちだけではなく、貧しく苦しみに耐えていた人たちもいたことでしょう。そのような人たちは、自分たちの貧しく苦しい生活の最中、イエス様の「自分の貧しさを知る人は幸いである」と耳にするのです。彼らの中には、イエス様の教えにピンと来なかった人もいたことでしょう。イエス様のこの言葉は、もちろん物質的な「貧しさ」という意味もあるでしょうが、「霊において【貧しい人】」という意味で、自分の貧しさを知っているから、おん父の助け、恵みに頼るしかないと思うことでその結果、「幸せ」になれるという意味のようです。

 イエス様は、「悲しむ人は幸いである。その人たちは慰められる。」と言われます。イエス様はなぜ、「悲しむ人は幸いである」と言われたのでしょう。この箇所でイエス様は、「主の恵みの年、わたしたちの神がなさる報復の日を宣言し、すべての悲しむ人を慰めるために気遣い、灰の代わりに頭飾りを、喪に服する代わりに喜びの油を、失意の代わりに賛美の衣を与えるためである」(イザヤ61・2〜3)ということを引用されたようです。ここでも、イエス様は、人々の悲しみの上に、おん父からの豊かな恵みによって慰めを受けるということで、「幸い」である、と教えられたのです。

 イエス様は、「柔和な人は幸いである。その人は地を受け継ぐ」と言われます。この箇所は、なんとなく、理解できるのではないでしょうか。ただ、この「地を受け継ぐ」というのは、地上の【地】ということではなく、【神の地】ということであり、「天の国」という意味のようです。

 イエス様は、「義に飢え渇く人は幸いである。その人は満たされる」と言われます。この「義」とは、私たちが考える「正義」という意味ではなく、パウロが伝えるように、「人を救うのは神の義であり、それはひとえに信仰を通して与えられることが、福音に表れています。」(ローマ1・17)、「行いに関わりなく、義とされるにふさわしいと神がみなされた人の幸いについて」(ローマ4・6)とありますように、おん父によって与えられる「義」という意味です。ですから、おん父の【義】に飢え渇く人には、おん父からの恵みが与えられるので「幸い」となるのです。

 イエス様が言われる「幸い」の中には、「貧しい人」、「悲しむ人」のように私たちが理解に苦しむ「幸い」がいくつか出てきます。その中の一つとして「義のために迫害されている人は幸いである。天の国はその人たちのものである」と言う箇所があります。ここでいう【義】もおん父の【義】ですから、その【義】を求める中で周りから「信仰」の違いからくる【迫害】が起こって来るのです。おん父は、ご自分の【義】のために迫害を受けている人に対してその苦しみを慰められ、ご自分との交わりの中に包み込んでくださるのです。

 イエス様が言われる8つの【幸い】は、すべてイエス様ご自身の姿を通して私たちに教えられておられ、また、おん父からの恵みなのです。私たちは、みことばを通して「私にとっての【幸せ】とは何なのだろう」と振り返ってみる時間を持つことができたらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

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