私たちは、何か物事を「信じる」時には、そのことの重要性にもありますが、かなりの信憑性がないと心から「信じる」ということはできませんし、たとえ、「信じる」と言っても「もしかして」と疑う心がある時には、何かしらの保険を持っておくのではないでしょうか。しかし、洗礼の恵みを頂いている私たちは、「もしかしたら」という疑う場合においても、「それでも、おん父がなんとかしてくださる」という信仰をもって「信じる」ことができたらいいですね。
きょうのみことばは、「ラザロの復活」の場面です。きょうの箇所は、「ある病人がいた。ラザロといい、マリアとその姉妹マルタの村ベタニアの人であった。理……その兄弟ラザロが病気であった。」というみ言葉で始まり、このベタニアの兄弟姉妹とイエス様との関係を伝えています。みことばの中に、「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」(ヨハネ11・5)とありますように、彼らとイエス様は、非常に親しい関係だったことがわかります。マルタとマリアは兄弟ラザロが病気であったため、イエス様の所に人を送って「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせます。イエス様は、「この病気は死ぬほどのものではない。神の栄光のためのものであり、神の子はそれによって栄光を受けることになる」と言われます。
イエス様は、ラザロが亡くなる事をご存知だったにも関わらずこう言われます。イエス様は、ラザロを復活させられますが、それは、ただ単に奇跡を行うのではないということを人々に知らせたかったのでしょう。イエス様は、その場所に2日間留まられた後に、「もう一度ユダヤに行こう」と言われます。イエス様は、一刻でも早くラザロのもとに駆けつけ癒したかったのかもしれません。しかし、ラザロを死から復活させることがおん父の栄光のためのものであり、それがおん父のみ旨だったためあえてその場所に留まられたのです。
イエス様は、ユダヤに行くことを止めようとする弟子たちに「ラザロは死んだのだ。わたしがそこに居合わせなかったことは、あなた方のためによかった。あなた方が信じるようになるためである。ともかくラザロの所に行こう」と言われます。イエス様が同じ所に2日間も滞在されたのは、ご自分がラザロを復活させ、彼らがおん父のみ業を【信じる】ためだったのです。
イエス様はベタニアに行かれると、ラザロが墓に葬られてからすでに4日もたっていました。マルタは、イエス様が来られたことを聞いて迎えに行き「主よ、もしあなたがここにいてくださったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう。しかし、あなたが神にお願いすることは何でも、神がかなえてくださると、今でも知っております。」といいます。マルタは、イエス様に使いを送った時に早くきてくださったら、ラザロが死ななかったと思ったのではないでしょうか。それでも、彼女は、イエス様なら死んだラザロが終わりの日の復活の時に復活するように、神が復活させてくださること信じていました。そのため、イエス様が「あなたの兄弟は復活する」と言われた時にすんなりと理解します。
イエス様は、彼女の心を確かめるように「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、たとえ死んでも生きる。生きていて、わたしを信じる者はみな、永遠に死ぬことはない。このことをあなたは信じるか」と言われます。マルタは、イエス様に「はい、主よ、あなたがこの世に来られるはずの神の子、メシアであると、わたしは信じております」と答えます。マルタの信仰告白は、残念ながら、この時は頭での理解で「【信じて】おります」と答えているようです。
マルタは、家に帰ってマリアに「先生がお見えです。あなたをお呼びです」と伝えます。マリアは、イエス様の所に来て足元にひれ伏し「主よ、もしここに……」とイエス様に伝えます。イエス様は彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、張り裂ける思いで、「ラザロをどこに置いたのか」と言われます。イエス様は、ご自分の感情を抑えることがおできにならなかったのでしょう。それほどラザロを愛されていたし、彼の死を悼むマリアやマルタ、そしてユダヤ人たちの涙にご自分も涙を流されたのです。
イエス様は、ラザロの墓に行かれ、そして「石を取りのけなさい」と言われます。それを聞いたマルタは「主よ、もう臭くなっています。4日目ですから」と答えます。イエス様は、彼女に「信じるなら、神の栄光を見ると、あなたは言ったではないか」と伝えます。イエス様は、ここでもう一度マルタの信仰告白を振り返させたのです。イエス様は「父よ、わたしの願いを聞いてくださったことを感謝します。……あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」と言われて、「ラザロ、出てきなさい」と大声で叫ばれます。マルタとマリアを含め、ラザロが復活したことでイエス様を心から信じます。
イエス様は、ラザロの復活を通して【信じる】という事を私たちに伝えられます。私たちは、さまざまな困難や苦難に陥ることがあります。たとえそのように先が見えないような時でも、「主よ、わたしは【信じます】」という信仰を持つことができたらいいですね。
