1914年(大正3年)、第一次世界大戦が欧州で勃発した。この大戦はイタリアも巻き込み、若者を戦場へし駆り出した。徴兵年齢に達した神学生たちは、多数の若者が砲弾飛び交う戦場で血と汗を流している最中に、反戦論を唱えて学業を続ける……というわけにもいかなかった。
翌年11月22日、神学1年生であった19歳のピノトゥも兵役に召集され、ジゥノヴァの北西15キロにあったアレッサンドリアの衛生中隊に入隊した。第一線の先頭部隊に加わらず、後方で戦病軍人の看護に当たることができたのは、神学生としてせめてもの幸いであった。
しかし、軍隊は種々さまざまの職業の人たち、それぞれの生活習慣を身につけた人たち、教育レベルの違う人たちの集団である。禁欲を強いられた一部の若者にとって、わい談や食べ物の話は日常茶飯事の気晴らしである。貞潔の誓願まで立てていたピノトゥには、広い社会を知るのにまたとない体験であったろう。ピノトゥは、兵舎の中でもできるだけ信心業を怠らず、聖母の保護を求めて生活し、やましいことに心を曇らせることはなかった。当時を振り返って、ジャッカルド神父は次のように書いている。
アレッサンドリアでは、マリアへの信心業を減らしませんでした……。兵隊仲間と一緒に聖母マリア下僕会会員たちのところへ……カルメル会員のところへもたいそう喜んで行っていました。軍帽にも、あなた(注、聖母)のメダイを付けていました。あなたは私をお守りくださり、どんな危険にあっても私を救ってくださいました。
約一ヵ月の兵役の後に、ピノトゥは貧血症ということで除隊させられた。それから程なくして、再検査のためにサヴィリアーノへ出頭を命じられた。そこの軍医大佐は聖職者嫌いで「泣く子も黙る」厳格な人であったが、この大佐のお陰で不合格となった。後年ジャッカルド神父は、当時の様子をこう書いている。「私の前で、大佐は温和になり、ためらい、私の答えを聞いただけで送還してくれました」と。
・『マスコミの使徒 福者ジャッカルド神父』(池田敏雄著)1993年
※現代的に一部不適切と思われる表現がありますが、当時のオリジナリティーを尊重し掲載しております。