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福者ジャッカルド神父

マスコミへの関心――福者ジャッカルド神父(12)

 20世紀初頭のイタリアでは出版物がマスコミ界の主流を占めていたので、今日のテレビに似て、善くも悪くもその影響力は計り知れなかった。特に、人びとに悪影響を及ぼしていたのが、当時の欧州に広まっていたモデルニズム(Modernism 近代主義)という考え方である。すなわち、キリスト教は外部から人間に示された天啓や教会の教導権によって成立したものではなくて、個々の人の内心で直接に霊感を受けた神体験から成立したものである、という誤謬である。

 さらに「近代主義神学」になると、教会の伝統という外的権威の束縛を脱し、近代諸科学の成果を積極的に取り入れることによって、現代にふさわしいキリスト教を成立させようとする。しかし、この考え方によれば、人間の認識力は現象界に限られるから、神の創造した世界からは神を認知できない、という誤謬に陥った。ピオ十世は1907年の回勅で、この運動を「あらゆる異説の総合」という断罪した。

 近代主義を広める出版物を、このまま放っておいてよいのか? これに対抗する強力な出版社を創設し、教皇文書を翻訳して善世界に広め、よい出版物を出して、キリストの王国を全地に広げよう。これが、当時の若いアルベリオーネ神父の心に芽生えていた一つの企画であった。

 ピノトゥは、指導者であるアルベリオーネ神父に接して、また、『ガゼッタ・ダルバ(Gazzeta d’Alba)』というアルバ教区の週刊新聞(注、1913年以来アルバ教区長の以来で、アルベリオーネ神父がこの新聞の編集長になっていた)や『モメント(Momento )』というカトリック新聞、その他の出版物を通して、教会や社会の差し迫った諸問題を肌で感じ、ジンナジオ(中学)課程の初期から「時のしるし」を読み取り、マスコミの重要さを悟っていたにちがいない。その手帳の中に、「ガゼッタ・ダルバや他の新聞も、私の気に入っていました。良書によって家庭に善行を尽くしたいと思っています」と書き記しているからである。

 またピノトゥは、ジンナジオ課程の終わりに、つまり1912年(明治45年)16歳の時に、こう書いている。「なるべく早めに出版関係の仕事がしたいのです……。実をいうと、一小教区だけの分野では気が収まりません。出版は私の理想、私の活動分野であると切実に感じています。指導司祭(注、アルベリオーネ神父)と話していると、出版事業は重要であると思われます。後に、出版事業は使徒職として必要であると悟りました」と。

 当時アルベリオーネ神父は、アルバ神学校の哲学課程の学生にはイタリア史を、神学課程の学生には教会史を教えていた。授業にあたっては、ただ歴史的事件の因果関係にとどまらず、現代社会の実情をも伝えていた。その際に教皇文書にも触れ、20世紀初頭の教会と諸国民が聖職者に何を求めるかを具体的に説明した。

 さらに、勉学と生活を具体的に結びつけるために、アルベリオーネ神父は二つの祈りを作成させた。それらの祈りは教会の要請に応えて、新しい諸使徒職の修道会を起こしてください、と神に懇願するものであった。ピノトゥはこの行こうに全面的に賛同し、毎日、これらの祈りの先唱をして、他の神学生たちと一緒に祈った。アルベリオーネ神父は、当時の状況を次のように書いている。

 こうして、1909年から1914年にかけて、神の摂理によってパウロ家が考案されていた時、彼(ピノトゥ)には ──全体像が飲み込めなかったにしても──はっきり閃くものがありました。ピノトゥはご聖体に対してきわめて熱烈に信心をしていたし、マリアへの信心も熱心であったし、読書もし、いや、もっとはっきりいうと教皇の諸文書を熟読していたので、教会の必要としているものすべてについて、また人のためになる最新の諸手段は何であるかについても啓蒙されていったのです。

 こうして、1914年(大正3年)8月20日、出版事業を使徒職とする聖パウロ会が、アルベリオーネ神父によって創立された。

・『マスコミの使徒 福者ジャッカルド神父』(池田敏雄著)1993年
※現代的に一部不適切と思われる表現がありますが、当時のオリジナリティーを尊重し掲載しております。

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