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これってどんな種?

証しするという種 年間第2主日(ヨハネ1・29〜34)

 「証し」という言葉の意味は、「証拠、証明」と(『新明解国語辞典』)とあります。また、カトリック中央協議会のホームページには、「『あかし』は広い意味を持ち、『証人』『証言』『証明』という意味合いもあります。いずれも基本的に、信者がイエス・キリストの教えにしたがって生活し、そのことばと行いを通して、まわりの人々にキリストの愛を伝えることを表します。」とありました。私たちは、今一度生活を振り返りながらイエス様をどのように【証し】しているかということを見つめるのもいいかもしれませんね。

 きょうのみことばは、洗礼者ヨハネがイエス様について【証し】する場面です。特にヨハネ福音書の1章には、「光について証しするために来た」(ヨハネ1・8)とか「ヨハネはこの方について証しをし、こう叫んだ」(ヨハネ1・15)とか「ヨハネの証しは次のとおりである」(ヨハネ1・19)とあります。

 きょうのみことばでは、エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちに遣わされて「あなたはどなたですか」と尋ねるために、洗礼者ヨハネの所に遣わされた場面があります。この中で、洗礼者ヨハネは、「わたしの後から来られるかで、わたしはその方の履き物の紐を解く値打ちものない」とユダヤ人に答えています。ヨハネは、自分はメシアではなく、証しする者だと言っているようです。

 きょうのみことばは、「その翌日」という言葉で始まっていますから、ヨハネとユダヤ人たちとの問答があった「その翌日」というわけです。みことばは「ヨハネはイエスが自分の方に来られるのを見て、こう言った……」とあります。もしかしたらヨハネの弟子たちの他にも、エルサレムから遣わされたユダヤ人たちもいたのかもしれません。ヨハネは自分が証しするために遣わされた方であるイエス様が来られるのを見て心が躍ったことでしょう。

 ヨハネは、人々に「見るがよい。世の罪を取り除く神の小羊だ。『わたしの後から一人の人が来られる。その方は、わたしよりも偉大である。わたしより先におられたからである』」と言ってイエス様のことを伝えます。ヨハネは、イエス様のことを【神の小羊】と言って、「イエス様こそが【メシア】ですよ」ということを彼の弟子たちを含め、エルサレムから来たユダヤ人たちに示したのでしょう。ヨハネが言う「わたしよりも先におられたからである」というのは、時間的な意味ではなく、「初めにみ言葉があった」(ヨハネ1・1)とありますように、「み言葉である、イエス様」のことを言っているようです。

 ヨハネは、「わたしもこの方を知らなかった」と言います。ヨハネは、きょうのみことばの箇所でこの言葉を2回使っています。私たちは、この「わたしもこの方を知らなかった」という言葉を聞くとき、「えっ、なぜ」という大きな疑問を感じるのではないでしょうか。ヨハネとイエス様は、親戚同士ですし、マリア様がエリザベトを訪問した時に「胎内の子が喜び踊りました」(ルカ1・44)とありますから、ヨハネが成長するなかで母エリザベトからイエス様のことについて聞いたことでしょう。ですから、当然ヨハネは、イエス様のことを知っていたと思うのです。

 さらに、ヨハネはイエス様について証しするという使命をいただいているので、「なぜここで、『この方を知らなかった』」というのは疑問が出てきます。ヨハネがここで「この方を知らなかった」と言ったのは、イエス様の深い部分、真理であるイエス様のことを言っているのではないでしょうか。私たちは、イエス様のことを「言葉」では知っていますが、イエス様の中にあるさまざまなことは【知らない】のかもしれません。それは、本当の意味でイエス様を【知る】ためには、おん父の恵み、介入なしには【知る】ことができないからです。

 ヨハネは、「わたしは、霊が鳩のように天から降り、この方の上に留まるのを見た。……」と言います。このことは、ヨハネがイエス様に洗礼を授けた時のことを言っているのでしょう(マタイ3・16、マルコ1・10、ルカ3・22参照)。ヨハネは、このおん父が示された体験によってイエス様が【世の罪を除く神の小羊】であることを知ることができたのです。ヨハネは、このことを【見た】と言っています。ヨハネ福音書では、【見る】という言葉の中に、「心の目で見る」という意味を用いています。洗礼者ヨハネが【見た】と言っているのは、おん父の介入があり、「心の目で【見る】」ことができたと言っているのでしょう。

 ヨハネは、「『……霊がある人の上に降って留まるのを見たら、その人こそ聖霊によって洗礼を授ける者である』と。わたしはそれを見た」と繰り返すように言います。ヨハネにとってイエス様への洗礼の体験は、イエス様を【知る】【信じる】ことができる大きな宝であり、恵みだったのです。

 ヨハネは、「それでわたしは、この方こそ神の子であると証ししているのである」と言います。ヨハネは、イエス様こそが【メシア】であると心から確信し、生涯を通してイエス様を【証し】する事とを自分の使命としたのです。私たちは、ヨハネのように日々の生活の中でイエス様を【証し】することができたらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. 証しするという種 年間第2主日(ヨハネ1・29〜34)

  2. 愛する子のひとりという種 主の洗礼の祝日(マタイ3・13〜17)

  3. 愛のきずなという種 聖家族(マタイ2・13〜15、19〜23)

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