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これってどんな種?

ふさわしい実という種 待降節第2主日(マタイ3・1〜12)

 私たちは、【罪】をどのように思っているでしょうか。私が【罪】を意識したのは、小学生の頃だったでしょうか。それは、親に対して初めて嘘をついた時でした。何か、自分の失敗を隠そうとしていろいろな言い訳を考えて、正直に自分がやったと言えなかったことがあります。今考えると、その時の私の心は、何となかくザワザワして気持ちが悪かったという感じでした。母は、きっと私が嘘をつているとわかっていたのでしょう。私に「嘘をつくのは良くないことよ」と言ってくれました。

 きょうのみことばは、洗礼者ヨハネが現れて人々に洗礼を授け、後からメシアであるイエス様が来られることを伝える場面です。きょうのみことばは、「そのころ、洗礼者ヨハネが現れ、ユダヤの荒れ野で宣べ伝えて言った、「悔い改めよ。天の国は近づいた」、という言葉から始まっています。ヨハネは、まず、「悔い改めよ」と人々に伝えます。この言葉は、きっと人々の心の中に、自分を振り返る【何か】を感じさせたのでしょう。さらに、「天の国は近づいた」と続けます。この【天の国】というのは、おん父との宴のことであり、【救い主】が来られるということでもあるのではないでしょうか。

 ユダヤ人たちは、長い間【救い主】が来られることを待ち望んでいました。そして、その【救い主】が来られる前には再び預言者エリアが現れると言われていたようです。みことばは、「この人は、預言者イザヤによって、『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ』と言われていたその人である」とあります。みことばは、ヨハネがどのような人で、何のために現れたのかを伝えています。ヨハネは、一人ひとりが「自分と主である神との関係を整えること、自分の中にある主とのわだかまりに気づき、それをもとに戻すこと」を促しているのでしょう。

 人々は、ヨハネのこの言葉を聞いて改めて【自分】を振り返ったのではないでしょうか。それと同時にようやく自分たちが待っていた【救い主】が来られることを知って、喜んだことでしょう。人々は、エルサレムやユダヤ全土、またヨルダン川周辺の地域一帯からヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けます。これほど、ヨハネの教えは当時の人々の心を捉え、影響力があったのです。

 人々は、自分たちが住んでいる所から離れ、わざわざヨハネがいる【荒れ野】まで足を運びます。【荒れ野】は、自分の身を隠す所もなく、暑さや寒さに耐え、野獣や人に害を及ぼす動物もいて、神様に頼らなければ生きることができない場所でした。人々は、【荒れ野】を通ることで「自分と神」との関係を見つめなおしたのではないでしょうか。今の私たちにとっても【荒れ野】は、自分とおん父との関係を深めるために必要な場所であり、恵みの場所とも言えることでしょう。

 ヨハネの所に来た人々は、毎日の生活の中でどこか荒みを感じ、何とかしておん父との関係を整えたいと思っていたのでしょう。彼らの中には、人々から罪人と言われる徴税人や兵士もいたでしょうし(ルカ3・12〜14参照)、遊女もいたことでしょう。彼らは、【天の国】が近づき、【救い主】が来られる準備をするために、今の自分たちままではいけないと、心から悔い改めてヨハネの所に行ったのでしょう。

 そのような中、ファリサイ派とサドカイ派の人々が、大勢洗礼を受けにヨハネの所に来ます。ヨハネは、彼らに「蝮の子孫よ、来るべき怒りから逃れるように、誰が教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。」と言います。ファリサイ派とサドカイ派の人々は、ヨハネが「蝮の子孫よ」と激しく言うように他の【自分の罪を心から悔い改めに来た人々】と違って、ただ、周りの人に自分たちも「洗礼を受けに来た」ということを見せるために、ヨハネの所に来たのです。

 ヨハネは、彼らに「悔い改めにふさわしい実を結べ」と言いますが、その【ふさわしい実】とは、おん父との関係を整え、【天の国】の状態を指しているのではないでしょうか。彼らは、自分たちが「われわれの父はアブラハムである」と言うことを自慢し、すでに選ばれた者という特権を得ているという傲慢な心で満ちていました。ヨハネは、彼らの傲慢な心をわかっていたので、【蝮の子孫よ】と激しい言葉を使い、さらに、「斧はすでに木の根元に置かれている。だから善い実を結ばない木はすべて切り倒され、火に投げ入れられる。」と言います。ヨハネは、ここでも【善い実】と言っています。私たちは、日々の生活の中で【善い実】を結ぶこと、おん父との関係を整えていくことに目を向ける時間を持つことができたらいいですね。

 ヨハネは、「わたしは水で、あなた方に悔い改めの洗礼を授ける。……その方は聖霊と火で、あなた方に洗礼をお授けになる。」と言います。今、聖霊と火の洗礼を頂いた私たちは、イエス様を迎えるために【ふさわしい実】、【善い実】を結んでいるでしょうか。今一度、私たちの心の中を整えてみるために【荒れ野】の時を持って、おん父との関係を整えることができたらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. ふさわしい実という種 待降節第2主日(マタイ3・1〜12)

  2. 目を覚ますという種 待降節第1主日(マタイ24・37〜44)

  3. 包んでくださるイエス様という種 王であるキリスト(ルカ23・35〜43)

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