1 「いさおし」とは
*「いさおし」(功徳)とは、一般に、ある団体または社会が、善行あるいは非行などのために報奨あるいは罰に値するとみなされる所属員の行為に対して与える、「しかるべき報い」を意味します。いさおしは相等性の原理のもとにある、正義の徳の一つです。
*厳密な意味では、神の前では人間にはいさおしというものはありえません。私たちは創造主である神からすべてをいただいているので、神と私たちとは想像することさえできないほど不平等なのです。
*神のみ前でキリスト教的生活をしている人間のいさおしは、神がお望みのままに人間を恵みの業に協力させてくださったことによるものです。まず最初に、父としての行為から生じる神のわざであり、これに協力する人間の自由な行為は次に来ます。したがって、よい行いのいさおしは、まず神の恵みに、その後で、信者に帰せられなければなりません。もっとはっきり言えば、人間のいさおし自体が神に帰すべきものなのです。人間のよいわざは、キリストにおける聖霊の先行的恵みと助けとに由来するものだからです。
*私たちは恵みにより、神の養子となって神の本性にあずかるものとされたので、神の無償の正義に基づいて、私たちのいさおしを真のいさおしにしていただけるのです。そこに恵みによる権利、愛のまったき権利が生じ、私たちはキリストの「共同相続人」、永遠のいのちの約束された遺産を得るにふさわしい者としていただくことになります。私たちのよい業のいさおしは、神の慈しみの賜物です。「先に恵みが与えられていましたので、今そのお返しをいたしましょう。……あなたのいさおしとは神の賜物なのです。」
*回心やゆるし、義化の根源には、まず神の発意による恵みがあるのですから、最初の恵みを得るに値する人物などだれ一人いません。私たちは、まず聖霊と愛の働きに動かされた後で、自分自身や他の人々のために、聖性、恵みや愛の成長、永遠のいのちを得るために役立ついさおしを立てることができるのです。健康や友情のような現世的なことがらについては、神の英知に基づいたいさおしを立てることができます。キリスト者はこれらの恵みや賜物を祈り求めることができます。祈ることによって、いさおしとなる行為に必要な恵みをいただくことができるのです。
*神のみ前にあって、私たちのすえてのいさおしの源となっているのは、私たちに対するキリストの愛です。恵みは、私たちを能動的愛でキリストに結び付け、私たちの行為を超自然的なものにし、そのおかげで、私たちの行為は、人間の前だけではなく神のみ前でもいさおしのあるものにしていただけるのです。聖人たちはいつも自分たちのいさおしがまったくの恵みであることを強く自覚していました。
2 キリスト教的聖性
*「神を愛する者たち、つまり、計画に従って召された者たちには、万事が益となるように神がともに働くということを、私たちは知っています。神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められたものたちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです」(ロマ8・28~30)。
*「どのような身分と地位にあっても、すべてのキリスト信者がキリスト教的生活の完成と完全な愛に至るよう召されています」。すべての人が聖性へと召されています。「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ5・48)。
*完徳への道は十字架を通り越すものです。聖性は、自己放棄と霊的戦いなしには得ることができません。霊的進歩は修行と禁欲とを伴うものであり、それを通して真福八端の平和と喜びのうちに生きるように徐々に導かれていくのです。
