(序)
*社会が社会正義を実現するのは、各団体や各個人がそれぞれの本性や召命を全うするために必要なものを手に入れるための諸条件を満たすときです。社会正義というものは、共通善と権威の行使とに関連しているものです。
1 人間の尊重
*社会正義は、人間の超越的な尊厳を尊重することなしには得られません。人間こそが社会が目指す究極の目的なのです。
*人間を尊重することには、神によって創造されたものとしての尊厳に由来する諸権利を尊重することが含まれています。これらの権利は社会に先立って存在し、社会より上位にあるものです。また、あらゆる権利の倫理的正当性の土台となるものです。これらを軽んじ、あるいは実定法で認めないならば、社会は自らの倫理的正当性を損ないます。人間の権利が尊重されていない場合は、権威者は他人を従わせるために、実力また暴力を頼みにするほかはありません。善意の人々にこれらの権利を想起させ、過度なあるいは誤った要求とこれらの権利との相違を明らかにするのが教会に委ねられた務めなのです。
*人間を尊重するということには、「各自は隣人を例外なしに『もう一人の自分』と考えなければならず、まず隣人の生活と、それを人間にふさわしく保つために必要な手段とについて考慮すべきである」とう原理を尊重するということが伴ってきます。いかなる法も、それ自体としては、真に兄弟的は社会を建設するための障害となる、恐れ、偏見、利己主義などを消滅させることはできません。このような態度は、一人ひとりを「隣人」、兄弟姉妹とみなす愛がなければ無くなることはありません。
*他人の隣人となり、積極的に奉仕する義務は、その人が貧しい状態に陥ったときには、いっそうの急務となります。「わたしの兄弟であるこのもっとも小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25・40)。
*この義務は、わたしたちとは違う考えを持っていたり行動をとったりする人々に対する時にも当てはめられます。キリストの教えは私たちに害を及ぼした人々をゆるすことまで求め、新しい掟である愛の掟をあらゆる敵に適用させるものです。福音の精神に基づく救済は敵そのものに対する憎しみとは相いれるものではありませんが、敵が行った悪い行為に対する憎しみとは相いれないわけではありません。
2 人間間の平等と相違
*唯一の神にかたどって造られ、同じ理性的霊魂を与えられたすべての人間の起源と本性とは同一です。すべての人間はキリストの犠牲によって贖われ、同じ神的至福にあずかるよう召されています。したがって、皆、平等の尊厳を持っているのです。
*人間は本質的には、人格としての尊厳とそれに由来する人権という点では平等です。
*人間は生まれた時には、自分の肉体的・精神的発達に必要なすべてを備えてはいないのです。他の人々の助けを必要とします。相違は、年齢、身体的能力、知的・倫理的能力、各自が経験した交流、富の配分などに由来して現れてきます。「タラントン」は同等に配分されているのではありません。
*以上の相違は、神の計画に基づくもので、神は各自が自分に必要なものを他の人から受け、特別な「タラントン」を持つものがこれを必要とする人々にその恩恵を分かつことを望んでおられるのです。相違は寛容、好意、分かち合いを促し、しばしばこれを義務付けます。相違はまた、諸文化が相互に豊かにし合うための刺激ともなります。
*無数の男女を打ちのめす不正は不平等も存在します。それは明らかに福音とは対立するものです。
「人間の平等な尊厳は、生活条件がもっと人間らしく、公正なものとなることを要求します。一つの人間家族に属する人々、または諸民族の間における経済的、社会的な大きな不平等は醜聞(しゅうぶん)であり、社会正義、平等、人間の尊厳、社会的および国際的平和に反します。」