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これってどんな種?

もう一人の弟子という種 復活の主日(ヨハネ20・1〜9)

 私たちの中で【復活】を体験した人は誰もいません。聖書の中では、イエス様が奇跡によって亡くなった人を蘇らせる場面が出てきますが、それは【復活】したということではありません。「臨死体験」(「死にかけた人が、夢うつつの状態で、死の世界を垣間見たと信じるような体験をすること。また、その体験。」(『新明解国語辞典』)、というのもありますが、それも【復活】ではありません。

 ミサの式文の中で私たちは、司祭が「信仰の神秘」と言われた後に「主よ、あなたの死を告げ知らせ、復活をほめたたえます。再び来られる時まで」と唱えます。また、同じように「信仰宣言」の中にも【復活】という言葉が出てきます。このように見てきますと、私たちにとって【復活】は、神秘であると同時に私たちが信じているものと言ってもいいでしょう。私たちは、みことばを通してイエス様が復活されたことをゆっくり黙想することができたらいいですね。

 きょうのみことばは、マグダラのマリアの言葉を聞いたペトロとイエスが愛しておられたもう一人の弟子(ヨハネ)が、イエス様が葬られた墓に行く場面です。ヨハネ福音書だけではなく、共観福音書を含め実際にイエス様が復活される場面は描かれていません。共観福音書での復活の場面は、ヨハネ福音書にはない、マグダラのマリアと数人の女性が、イエス様が葬られた墓に行き、天使によってイエス様が復活されたと知らされる場面が描かれています。

 映画や演劇や小説などで、ある部分をはっきりと伝えず、観る人や読者の想像や推測に任せる、まさに「行間を読む」ような表現をすることがあります。そうすることによって、その部分を深く味わうことができるからではないでしょうか。福音書の中でイエス様が【復活】する場面が描かれていないのは、私たちがイエス様の【復活】を信仰の目で観て深く味わうためであるのかもしれません。

 みことばは、「週の初めの日の朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行き、墓から石が取り除かれているのを見た。」という言葉で始まっています。マグダラのマリアは、安息日が明けるのを待って「週の初め」の朝早くイエス様が葬られた墓に行きます。きっと誰よりもイエス様を愛していたのかもしれません。彼女は、「墓から石が取り除かれている」のを見てイエス様が「誰かが主を墓から取り去った」と思ったのです。イエス様が葬られた墓は、「まだ誰も葬られたことのない新しい墓」(ヨハネ19・41)だったので、石が取り除けられていることに違和感を覚えたのでしょう。

 新約聖書の中の【復活】の場面で、【空の墓】と【取り除かれた石】というこの二つに言葉は、イエス様の【復活】を表すキーワードと言ってもいいでしょう。復活されたイエス様にとって【墓】は、必要がないところだったのです。【墓】は、この地上の【闇】であり【死】の世界と言ってもいいでしょう。また、【石】は、【闇】と【光】との境を表しているのではないでしょうか。イエス様は、【死・闇】である【墓】から出られ【復活】されたのです。

 マグダラのマリアの知らせを聞いたペトロとヨハネは、出かけて走って墓に向かいます。みことばには、「二人は一緒に走っていったが、もう一人の弟子の方がペトロより早く走って、先に墓に着いた」とあります。なぜ、もう一人の弟子の方が先に墓に着いたのでしょう。それは、ペトロより若かったということもあるかもしれませんが、【イエスが愛しておられた弟子】というところが一番の理由ではないでしょうか。みことばの中では、【イエスが愛しておられた弟子】のことを「ゼベダイ子ヨハネ」と言われていますが、もしかしたら特定の弟子ではなく、【イエスが愛しておられた弟子】という私たち一人ひとりのことをさしているのではないでしょうか。

 さて、ペトロより早く墓に着いた弟子は、身をかがめてのぞき込んで、亜麻布が平らになっているのを見ますが、中に入りませんでした。彼は、本当は真っ先に入りたかったのかもしれませんが、ペトロが来るのを待ったのでしょう。遅れて来たペトロは、墓に入りよく見て、平らになっている亜麻布とイエス様の頭を包んでいた布切れが、亜麻布と一緒になっておらず、元のところに巻いたままになっているのを見ます。ペトロは、イエス様がおられない【空の墓】を観察するように見ます。ペトロの頭の中は、いったい何が起こったのか分からずこの情景が信じられなかったのではないでしょうか。

 次に、先に墓に着いたもう一人の弟子も中に入ってきて、見て信じます。マグダラのマリアは、墓を塞いでいた石が取り除かれているのを見て、イエス様が誰かに取り去られたと思います。ペトロは、中に入って観察するようによく見ますが、まだイエス様が復活されたかどうか信じられない状態のようです。しかし、このもう一人の弟子だけが中に入ってきて、【見て、信じた】のでした。彼が見た目というのは、信仰の目で見たのではないでしょうか。

 私たちは、信仰の目で【空の墓】を見て、イエス様の【復活】をより深く味わい感じるとともに、「イエスが愛していておられたもう一人の弟子」として日々の生活を送ることができたらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. もう一人の弟子という種 復活の主日(ヨハネ20・1〜9)

  2. 沈黙の力という種 受難の主日(マタイ27・11〜54)

  3. 信じるという種 四旬節第5主日(ヨハネ11・1〜45)

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