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伝統的釈義と現代の釈義の相克

4. 合本化の過程で明らかになった点(2)――伝統的釈義と現代の釈義の相克

2.翻訳上の問題
Ex. ローマ書  「義」→「神との正しい関係」
        「エン・クリスト」→「キリストに結ばれ」

一ヨハネ2:20 
 新共同訳「聖なる方から油を注がれている」
 OFM旧合本「聖なるかたから受けた聖霊の注油があります」
 合本「聖なる方から受けた塗油があります」
一ヨハネ2:27 
 新共同訳「御子から注がれた油がありますから」
 OFM旧合本「おん子から受けた聖霊の注油が留まっています」
 合本「御子から受けた塗油が留まっています」
一ヨハネ5:6-7
 新共同訳「”霊”」
 OFM旧合本「聖霊」    
一ヨハネ20:6b-7
 新共同訳「彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。」
 OFM合本「墓の中に入ってよく見ると、亜麻布が平らになっており、7イエスの頭を包んでいた布切れが、亜麻布と一緒に平らにはなっておらず、元の所に巻いたままになっていた。」

(注)
 6b‐7節は通常次のように訳出される。「ペトロは墓の中に入り、そこに置いてあった亜麻布と布切れとを見た。この布切れは頭を包んでいたもので、亜麻布から離れた所に丸めて置いてあった」。この訳では、なぜ「もう一人の弟子」(伝統的には「十二人」の中のヨハネとみなされてきた。18・15とその注(5)参照)がこれを「見て(イエスの復活を)信じた」(8節)かは理解し難い。ギリシア語句の微妙な意味をくんだ本訳からは、その弟子が埋葬用の布の状態を見て、イエスが亜麻布と手ぬぐいを抜け出る自由な復活体となったことを悟ったものと推測できる。この推測は、後続の二か所(19、26節)で、同じ日の夕方またその八日目のこととして、戸(原文では「戸」は複数)にも鍵がかかっていたにもかかわらず、イエスがそれを通り抜けて家の中に入って来た、と繰り返して述べる著者の意図的と思われる強調からも裏づけられる。「亜麻布」は恐らく長い一枚の布で、頭の所で半分に折り、遺体を包んだものであろう(19・40、マタ27・59、マコ15・46、ルカ23・53参照)。「頭を包んでいた布切れ」は、11・44でラザロの蘇えりの場合に「顔の周りは手ぬぐいで包まれていた」と記されているように、死に際して自然に開く顎を閉めておくためのものであった。その布が、元の所にイエスの頭を縛った輪の形のまま、平らになった亜麻布の中に残されていた。

一ヨハネ21:7
 新共同訳「イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、『主だ』と言った。シモン・ペトロは『主だ』と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。」
 OFM合本「イエスの愛しておられたあの弟子が、ペトロに『主だ』と言った。シモン・ペトロは『主だ』と聞くと、下には何も着ていなかったので、仕事着の裾(すそ)をからげて、湖に飛び込んだ。」

(注)
 「下には何も着ていなかったので、仕事着の裾をからげて」は、従来「裸だったので上着をまとうと」と訳出されてきたもので、裸で主の前に出るのは失礼である、との発想からの解釈であった。しかし、この場合「上着」の原語「エペンデュテース」は、むしろ「労働着」、「仕事着」、「労働用の上っ張り」の意であり、また、「裸だった」は、ほとんど何も着用していないような状態を指すので、「仕事着のみの軽装」の意である。したがって、仕事着のみを着用した状態、つまり、「仕事着の下は裸だった」状態を指している。この解釈に従えば、上に羽織った仕事着を脱ぎ捨てるわけにもいかず、泳ぎやすいように仕事着の裾をたくし上げたと考えられる。「からげて」の原語「ディアゾーンヌユミ」は、13・4でも「(身に)着けた」と訳した語で「巻きつける」「たくし上げる」意である。なお、下に何か着ていれば、泳ぎやすいように仕事着は脱ぎ捨てて泳いだであろう。本訳は、最も論理的であるこの解釈を取って訳出したものである。なお、「裾」は翻訳上の補充語である。

 このような問題はフランシスコ会聖書研究所訳だけの問題ではない。

 例えば、カトリック教会で唱えられている聖務日課『教会の祈り』の詩編の訳も多々問題がある。唱え易さ、歌い易さを根幹としている同書訳(典礼委員会訳)は内容的に2/3 程度になっている。

 一つだけ例を挙げたいと思います。例えば詩編142の8です。ちなみに、これを例として挙げたのは、わたしがフランシスコ会士であり、アシジのフランシスコが死を前にしてこの詩編を唱え、最後のこの一節を口にして息を引き取っているからです。

 『教会の祈り』では第一主日の「前晩の祈り」に用いられますが、そこでは次のように訳されています。

「わたしを捕われの身から救い出してください。
わたしは救いの恵みを感謝し、
あなたに従う人のつどいの中で
あなたの名をたたえる。」

 新共同訳では

「わたしの魂を枷から引き出してください。
あなたの御名に感謝することができますように。
主に従う人々がわたしを冠としますように。
あなたがわたしに報いてくださいますように。」

 フランシスコ会聖書研究所訳(合本)では

「わたしを獄(ひとや)から助け出し、
あなたの名に感謝させてください。
あなたがわたしを恵まれるので、
正しい者たちがわたしの周りに集まるでしょう。」

 次のような例もあります。

 曲が付けられて歌われるので、最近では馴染みになっている詩編133は『教会の祈り』では、第4金曜日の「昼の祈り」で用いられるが、その冒頭は

 「兄弟のように ともに住むのは、美しく、楽しいこと」(p.548)

 ところが、他の訳では次のようである。

 「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」(新共同訳)
 「見よ、兄弟が睦まじく住むのは、何と麗しく、快いことか」(OFM訳)

 もう一つ例をあげると、『教会の祈り』第4土曜日「朝の祈り」に用いられるエゼキエル書の賛歌(36:24-28)の26節の訳である

 「わたしは石の心を取り除き、愛の心を おまえたちに与える」(p.561)

 他の訳では

 「わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える」(新共同訳)
 「お前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える」(OFM訳)
    (「身体的な清めがもたらす内的刷新を指す」の注あり)

 ただし、同じ『教会の祈り』で同じ箇所(36:25-26)が第二主日の「朝の祈り」の「神のことば」で朗読されるが、そこでは

 「あなたがたの からだから石の心を除き、肉の心を与える」とある(p.179)

このような問題は翻訳において避けられないことであろう。これからも試行錯誤が続くことでしょう。

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小高 毅

1942(昭和17)年、韓国京城(現ソウル)に生まれる。上智大学大学院神学科博士課程修了。この間、ローマのアウグスティニアヌム教父研究所に留学。カトリック司祭、フランシスコ会士。

  1. 『フランシスコ会訳聖書』って、どんな聖書?(第4回)

  2. 『フランシスコ会訳聖書』って、どんな聖書?(第3回)

  3. 『フランシスコ会訳聖書』って、どんな聖書?(第2回)

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