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マスコミの先駆者アルベリオーネ神父

83. 祈りの人――マスコミの先駆者アルベリオーネ神父

 アルベリオーネ神父は、だだ神を通してのみ、現代世界、国家、家庭、人間を見ていた。そしてすべてに先立って、神のみを探し求め、神の望みを自分の望みとし、「み旨が天で行われるように地上でも行われますように」とたえず祈っておられた。さらに、まわりの人にも「祈りは、人間として、キリスト者として、修道者として、司祭として第一の、最大の務めである」と繰り返し教えていた。

 「私がいないと、あなた方は何一つできない」(ヨハネ5,5)という主キリストのことばは、アルベリオーネ神父に受肉し、その生活の信条になっていた。神父は、青春時代に経験した精神的な危機を思い出し、それを切り抜けたのは「神のお恵みと聖母マリアのおかげである」と述べ、神への信頼を祈り支えられながら、すべての活動を展開していた。

 その活動原理は、「すべてにおいて、すべてにわたって、神のみ旨を行うこと」であった。その神のみ旨は祈りによって知られ、すべてにわたって実行されることを、神父は身をもって示された。アルベリオーネ神父は、いろんな逆境にもまけずどうしても司祭への道を進むと決意したのは、「母親の祈りのおかげ」であったと述べている。また神父がマス・コミ使徒職に生涯をかけるという決心は、アルバの司教座聖堂で四時間聖体礼拝をした時に起こったものである。神学校では、キエザ神父の霊的指導のもとに「すべてを聖師のかたわらにあって祈りと黙想の題材に変える」ことを学んだ。

 また、このころ、アルバ神学校では教区長の勧めで「聖体の信心」と毎日の聖体礼拝が盛んに行われていた。それはフランスのヤンセニズムの影響を受けて、聖体は恐れ多いものであるから、年に数回拝領すればよいという風潮に対抗するためであった。それでアルベリオーネ神父も神学生時代は、ひんぱんに聖体を拝領し、神父になってからは、司教の承認を受けて、神学校に毎日の聖体拝領、月の静修、初金曜日の聖体拝領、主日の第二ミサを取り入れた。このよい効果を認めたので、のちにパウロ家にも、これらの信心を導入した。さらに子どもの聖体拝領、旅路のかてとしての最後の聖体拝領を早めに授けることを勧め、病人の聖体拝領についてなどのピオ十世の諸教令を教区内で実行した。

 一九二○年ごろ、先に述べたアマリア・カヴッツァ・ヴィタリ未亡人は、黙想会にあずかっている間に、アルベリオーネ神父のもとへ話しに行った。神父は机の上には郵便物が積み重ねられてあったが、神父はそれを見向きもせずに何かをしているので、婦人は、ふしぎに思ってたずねた。

 「急いでいることでもおありですか?」

「私の魂のこと以上に、もっと急ぐこととてほかにありまえますか?」

 「それなら結構ですわ。神父さまともあろう者が、ご自分の魂のために、まだほかに何をなさらなければならないと決心していらっしやるのですか?」

 「もっと祈りをする決心です。」

 その時代にアルバ教区長に宛てた短い書留郵便からわかる通り、神父は聖務日祷を含めて、ロザリオから射祷にいたるまで毎日三時間半祈っていた。数年前には、少なくとも毎日五時間は祈っていた。黙想会にあずかる人たちに、神父は何回も繰り返して、こう勧めていた。「りっぱな司祭は、一日に四時間は祈らねばならない」と。

 アルベリオーネ神父は、一九三四年(昭和九年)から三七年(昭和一二年)まで四回の大黙想の度毎に、「祈りの生活を完成する」というテーマで黙想した。その時のいくつかの決心を、ここにあげてみよう。「祈りに向かう心の傾きを作ること。パウロ的信心についても、その時や方法についても考えても、祈りこそ、わたしの修道会に対する第一の義務である。糾明、聖体訪問、種々の祈りの実践の進歩につとめる。これらは活動の力であり、知恵の光であり、心の慰めである。」

 一九三五年、祈りの生活、すべての信心業のじゅん守と、それらをより完成する努力をし、特に聖体の信心を深めることを決心している。その結論として、「信心業から、知・情・意がイエス・キリストに根ざした生活を生む。はずかしめと克己をさがし求めながら」としるされている。

 アルベリオーネ神父は、いつも神のみ旨をさがしつづけ、それを実現するために、全く神に身をささげるよう、一九四○年(昭和一五年)に次ぎの祈りをつくっている。

 「主よ、私から意思、好み、趣味を取り除いてください。私の時間と永遠について、私自身について、神が望んでおられることを、望んでおられるように自由にお使いになり、私について、ご自由になさることを望みます。もしお望みならば、私を無に帰してくださってもかまいません。私の健康も、名誉も、地位も、仕事も、全く内的なことも、外的なことも、私の罪の償いのためです。神はすべてであり、私はキリスト者として、修道者として、司祭として神のものです。イエス・キリストのように、私も神の手のうちに、常に温順でありたいものです。」

 また、アルベリオーネ神父は一九四一年(昭和一六年)の大黙想のとき、内的生活について手記の中で、こう書いている。「内的生活は外的生活の源泉であり、本質的生活であり、それは永遠で聖である。信・望・愛の実践のうちに、わたしたちを神に近づけ、聖霊のうちにイエス・キリストによって、天の喜びを神のうちに楽しむ準備をさせてくれる」と。

 経済至上主義と無神論がはびこる現代社会に、アルベリオーネ神父は信仰の巨人として、山を移すほどの証しをしたとも言える。そうなったのは、ひとえに「私は、誰を信じたかを知り、私にゆだねられたものを、かの日まで守る力を、その方が持っておられると確信している」という聖パウロのことばを自分のものとし、ほかの人もそうなることを望んだからにほかならない。アルベリオーネ神父は、一九四三年(昭和一七年)次の祈りを糾明帳に書き込み、毎日くりかえし祈っていた。「聖師イエス、死ぬ前に、三つの恵みを与えてください。(1) 不正と悪意のゆえに、私が犯した罪と失った恩恵を、ぜんぶ償わせてください。(2) 私が創造された時、神が私の上に予定しておられた完全さと功徳に到達させてください。(3) 私が原因となって、人に罪を犯させ、人に恩恵を失わせた、私の罪をゆるしてください。そしてその償いを果たさせてください。

 私のうちに用いられた御身のあわれみと、人びとに与えられた平和のために、御身が永遠にたたえられますように」と。

 アルベリオーネ神父は、旅行の時は、通常の祈り時間以外に、一人で、あるいは同伴者と一緒に祈っていた。師イエズス修道女会の総長ルチア・リッチはこう述べている。「自動車の中では、最短距離走行の場合にプリモ・マエストロは、すぐにロザリオをとなえはじめさせていました。長距離走行の場合は、ロザリオ一連、それも何回もとなえさせました。しばらく間を置いては、次々にコロンチナをとなえ、福音か聖書の箇所を読み、時には、その解釈もしました。一人では深い潜心と注意を払って聖務日祷をとなえていました。」

 最後の二十年間、とくに夜間は休むことも椅子に座ることもできず、部屋の中を行き戻りつ散歩して苦しみを柔らげながら祈りをしていたのである。

 アルベリオーネ神父は、御聖体を祈りの中心に置いていた。聖堂で祈るのを好み、いつも頭を下げ、目は閉じて体は聖櫃の方に向いていた。注意を集中してミサをささげ、人のささげるミサにもよくあずかった。口祷のうちで、彼の最も好んだのはロザリオであった。ミサとロザリオは、生涯彼にとって離せないものであった。また彼は人にパウロ家の信心を率先して実行した。すなわち御聖体にかたどられる聖師イエス、使徒の女王聖マリア、聖パウロ、聖ヨゼフ、守護の天使、煉獄の霊魂への信心を教えた通り実行した。最初の三つの信心は、彼の考えによれば毎日の糧となければならない。ほかの信心はとくに毎月の初週間になされるべきである。彼が祈りに寄せていた信念は、会話にも手紙にも現れ、くりかえし「私はお祈り申しあげます」とか「私たちは祈っております」とか言っていた。

 何か問題が生じた時とか何かの事業を始める際は、彼は決まって人びとにお願いしていた。そして彼はこう教えていた。

 「祈り以上に、本会に役立つものは、ほかにありえない。祈り以上に、私たちの役に立つわざは、ほかにない。祈りの司祭職以上に教会のためになる仕事は、ほかにない」と。彼は深い確信から人に祈りの重要さを教え、自分の生活で、いつもこれを実証していた。アルベリオーネ神父は臨終の苦しみの際もかすかな声で「みんなのために祈っています」と言い残してこの世を去ったが、天上でもその遺業によりいっそう貢献し続けるであろう。

・池田敏雄『マスコミの先駆者アルベリオーネ神父』1978年
現代的に一部不適切と思われる表現がありますが、当時のオリジナリティーを尊重し発行時のまま掲載しております。

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