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信心のすすめ

天国──信心のすすめ(24)

 「わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません。この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。」(Ⅰコリント 5,1-4)

Ⅰ 天国とは至福の場所であり、至福の状態であります。その至福では、善天使と義人たちが神への忠実のために報いを享受しているのです。
 状態と言われます。そのわけは、その状態においてのみ、私たちのあらゆるのぞみ、真理と善と喜びへのかわきが完全にみたされるからです。全被造物をもってしても、私たちのこのあこがれをみたしてくれません。その状態において、神の恩寵にかざられて霊魂は、神の力と威光とを獲得しますし、それによって、超自然的に神をしり、神を愛し、喜びするのに似ています。
 場所と言われます。そのわけは、神学者たちの変えは、教父と教会の教えと堅く一致して、天国は場所である、と言っているわけです。それがどこにあり、どのようなところであるかはわかりません。しかし、そこには、イエス・キリストの聖なる人性と童貞マリア、諸聖人ならびに善天使が一緒に住まっています。

Ⅱ 天国の至福は、視幻と愛と喜びにあります。
 「永遠の休み」と言われます。そのわけは、労苦と労働の終わりを示しているからです。「永遠の生命」と言われます。なぜなら、もっとまことで、霊的な生命だからであり、まことの生命とは神の生命だからです。永遠といわれるのは、終わりも死もないからです。「報い」と言われます。そのわけは、その忠実なしもべたちに与えてくださる報いだからです。
 「神とのうたげ」とも言われます。それは、「私は門の外に立ってたたいている。私の声を聞いて戸を開くなら、私はその人のところにはいって、彼とともに食事をし、彼も私とともに食事するであろう」(黙示録3,20)ということばに従って、主との親しさに至ることを示すためであり、また地上でよき戦いを戦った人に与えられた神との約束である。「正義のかんむり」を示すものであります。また、栄光、ほまれ、かがやき、天の国、視幻、天のエルザレム、喜び、永遠の光り、幸福、至福、天の祖国、栄光の永遠の重み、天などとも言われています。

Ⅲ 「私は、永遠のいのちを信じます」。聖師イエス、私がますます信じるように、私の上に、あなたの霊を送ってください。天国では、神とイエス・キリスト、聖マリア、諸聖人が私を待っています。私の天国の住人です。この地上は流謫の地として一時的にあるだけであり、天国への旅路にあるところです。天国にこそ永住の住み家があるのです。

・糾明───すべては、汽車の指定席のように使うように、私に与えられています。私は自分が旅人であり、地上の物事をただ手段であると変えているでしょうか。それらに執着することなく、離脱しているでしょうか。

・決心───心を高くあげよう。そして心をいつも天に向かわせよう。

『信心のすすめ-自己の聖化と人々の救いのために』アルベリオーネ神父(サンパウロ・1974年)
※現代的に一部不適切と思われる表現がありますが、当時のオリジナリティーを尊重し発行時のまま掲載しております。

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