私たちは、時々「愛している」という言葉を使ったり、聞いたりいたします。「愛」の意味は「個人の立場や利害にとらわれず、広く身のまわりのものすべての存在価値を認め、最大限に尊重していきたいと思う、人間本来備わっているととらえられる心情」(『新明解国語辞典』)とあります。では、私たちにとって【愛】とは、どのようなものなのでしょう。
パウロは、「愛は寛容なもの、慈悲深いものは愛。愛は妬まず、高ぶらず、誇らない。見苦しい振る舞いをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人の悪事を数え立てない。……」(1コリ13・4〜5)と言っています。あらためてゆっくりとコリント13章を味わって私にとって「愛」とは何なのかを黙想してみるのもいいですね。
きょうのみことばは、ファリサイ派の人々が性懲りも無くイエス様を試みようとして質問する場面です。彼らは、これまで「納税について」(マタイ22・15〜22)や「復活について」(22・23〜33)と何度もイエス様に質問をしていきます。「納税について」の時には、「言葉じりをとらえよう」として、相反するヘロデ党の人たちと一緒になってイエス様を陥れようとします。今度は、律法の専門家がイエス様を「試み」ようとして質問をしています。
きょうのみことばは、「サドカイ派の人々が言い込められたのを知って、ファリサイ派の人々は集まった」という言葉で始まっています。サドカイ派の人々は、「復活はない」と主張していますが、ファリサイ派の人々は、「復活はある」と主張していて対立するグループでした。ファリサイ派の人々は、サドカイ派の人々がある意味イエス様を陥れることができるのではないかと期待していたのかもしれません。ですから、「言い込められたのを知って」とありますように「次の一手」を講じたのでした。
ファリサイ派の人々の中で「律法の専門家」が、イエス様を【試み】ようとして尋ねたのは、「律法の中でどの掟がいちばん重要ですか」ということでした。イエス様はこの質問に対して【愛すること】と答えられます。彼らはイエス様を陥れるために、【言葉じりとらえる】ためとか【試みる】とか「悪意」をもってもっともらしい質問をイエス様に投げかけています。それに対してイエス様は、【愛】について答えられます。このようにみてみますと、イエス様が荒れ野で悪魔の試みに遭われた時も、悪魔はもっともらしい質問をしながらイエス様を試みます(マタイ4・1〜10参照)。ちなみに、この4章では、「試みる者が近づき、イエスに言った」(マタイ4・3)とあります。やはり【試みる】という心情は、【悪】の影が見え隠れしているのですね。
ファリサイ派の人々は、律法を重んじていましたし、みことばにあるように「律法の専門家」もいました。ですから、彼らが「律法の中でどの掟がいちばん重要ですか」という質問をすること自体が間違っています。彼らが重んじている【律法】は、613項目もありその中で、行うべき掟が248項目、行ってはいけない掟が365項目あります。確かにこれだけの項目があれば「どの掟がいちばん重要ですか」という質問をするのも無理ないと思います。
イエス様は、その質問に対して「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」と答えられます。このイエス様が答えられられたものは、申命記に書かれたものでが、その続きには、「今日、わたしがあなたに命じるこれらの言葉を心に留、子供たちにそれらを繰り返し教え、あなたが家に座っている時も道を歩くときも、寝ている時も起きている時も、この言葉を語り聞かせなさい。これを徴として手に結び、記念として額につけなさい。それをあなたの家の戸口の柱と門に書き記しなさい」(申命記6・6〜9)とあります。
イエス様は、彼らに「これがいちばん重要な掟である。」と答えられます。ファリサイ派の人々に限らず、ユダヤ人たちなら誰でも知っている身近な掟です。彼らは、悪意で覆われていたためその大切な掟を見落としていたのでしょう。イエス様は、「第二もこれに似ている。『隣人をあなた自身のように愛しなさい』」と答えられます。イエス様は、おん父を愛すること、さらに、隣人を自分自身のように愛すること」を答えられたのです。コリントの13章の中の「愛は妬まず」とありますが、ファリサイ派の人々は、イエス様に対して「妬み」の心を抱き、人々に対しては「高ぶり」の心を示していました。さらに、イエス様を試みようと「見苦しい振る舞い」をもしています。彼らは、律法の専門家にもかかわらず【愛】を忘れて反対の【悪】に染まっていたのです。
私たちは、「おん父を愛すること。隣人を自分のように愛すること」というもっとも大切な【掟】をイエス様からいただいています。パウロは「このうち最も優れているのは、愛」(1コリント13・13)と言っていますし、「愛を追い求めなさい」(1コリント14・1)とも言っています。私たちは、「本来備わっている」【愛】をパウロの言葉を味わいながら、あらためて【愛】について振り返ってみる時間を持つことができたらいいですね。
