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沈黙の力という種 受難の主日(マタイ27・11〜54)

 「沈黙」という言葉があります。意味は「黙りこむこと。〔社会的活動を一時中止している意にも用いられる〕」(『新明解国語辞典』)とあります。今の日常生活の中で「沈黙」するというのは、よほど意識しない限り難しいのではないでしょうか。ある黙想会に参加した時に「沈黙を大切にしましょう。それは、ただ黙っていることだけではなく、心の中まで沈黙することです。」と言われました。私たちは、沈黙すると言われてもいろいろなことを心配したり、考えたり、想像したりと慌ただしく頭の中で思い巡らしています。「心の沈黙」はそのようなことから解放しおん父だけに集中するようになるのです。

 きょうのみことばは、「イエス様のご受難」の場面です。みことばは「イエスは総督の前に立たれた。総督はイエスに尋ねた、『お前はユダヤ人の王か』。すると、イエスは仰せになった、『それは、あなたが言っていることである』。……イエスはどの訴えに対しても、一言もお答えにならなかった。」という、「ピラトの尋問」から始まっています。きょうのみことばでイエス様が口を開かれたのは、ピラトからの質問された時と最後の「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた場面だけです。

 ピラトはイエス様がユダヤ人たちの妬みの故に引き渡されたことを知っていましたので、何とかして無罪にしようとします。ピラトの妻からも「あの正しい人と関わりを持たないでください。昨夜、あの人の夢を見て、大変苦しみました」と言われます。マタイ福音書では、神からのお告げを「夢」を使って伝える場面がいくつかあります。彼女が見た「夢」もその一つです。彼女は、「夢」を見て、大変苦しみますが、それは、うなされるような「怖い夢」ではなく、「無実のイエス様を刑に処するような、人々の醜さ」に対しての「大変な苦しみ」と言ってもいいでしょう。

 しかし、ピラトの努力にも関わらずユダヤ人たちは、囚人であるバラバ・イエスの釈放を要求し、イエス様に対しては、「十字架につけろ」と答えます。みことばは「ピラトは、すべてのほねおりが無駄になり、かえって騒動が起こりそうなのを見て……」とありますように、ユダヤ人たちの頑なさ、醜さ、妬みという【悪】が現れています。この不正な裁判によってイエス様は、十字架につけるために引き渡されます。

 イエス様は、兵士たちから侮辱され、なぶりものにされます。それだけではなく、兵士は、イエス様がゴルゴタに行く途中に、キレネ人のシモンにも無理やり担わせます。イエス様は、今まで人々を癒し、救ってきたにも関わらずご自分の十字架をローマ兵によって身代わりとしてシモンに担わせてしまいます。イエス様は、自分だけの苦しみだけではなく、たまたま居合わせたシモンに対して苦しみが及ぼしてしまうという、耐え難い屈辱を味あわれたことでしょう。

 イエス様は、ゴルゴタに着かれ二人の強盗に挟まれる形で十字架につけられます。ユダヤ人たちは「頭を振りながら」イエス様を冒涜します。この「頭を振る」というのは、相手を激しく罵ったり嘲ったりするときの表現のようです。ですから、イエス様は、「……もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い」とか、「……今、十字架から降りてみるがよい。そうすれば、われわれは信じてやろう。……『わたしは神の子だ』と言ったのだから」とユダヤ人や祭司長だけではなく、両脇に十字架につけられた強盗からも罵られます。

 さて、イエス様が十字架上での苦しみは、正午から3時まで続いたようです。みことばには、「正午から、闇が全地を覆い、3時まで続いた」とあります。この「闇が全地を覆い」といのは、「悪の世界」と言ってもいいのかもしれません。ユダヤ人やローマ兵たちの侮辱や嘲り、妬みによる不正な裁判という人間の中にある醜い「【闇】(悪)の世界」の表現と言ってもいいでしょう。

 イエス様は、ご自分の最期を感じられ「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と大声で叫ばれます。これは、「わたしの神、わたしの神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味で、詩編22章の冒頭の部分です。この言葉だけでは、イエス様がおん父に対して嘆かれたように感じられますが、この詩編22章を味わってみますと、苦しみの中でもおん父への信頼と賛美が語られています。イエス様の【沈黙】は、常におん父への信頼と従順だったのではないでしょうか。イザヤ書には「主なる神が、わたしを助けてくださる。それ故、わたしは恥を覚えない」(イザヤ50・7)とあります。イエス様は、ご自分の死に至るまでおん父のみ旨を忠実に果たされたのです。

 さらにイエス様の【沈黙】の力は、百人隊長や周りの兵士たちに「まことに、この人は神の子であった」と信じさせます。パウロは手紙の中で「すべての舌は『イエス・キリストは主である』と表明し、父である神の栄光を輝かせているのです。」(フィリピ2・11)とあります。イエス様の【沈黙】のうちのご受難は、全世界の人をおん父へと導く力があったのです。私たちは、このイエス様の【沈黙】に倣いながら日々の黙想の糧とできたらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. 沈黙の力という種 受難の主日(マタイ27・11〜54)

  2. 信じるという種 四旬節第5主日(ヨハネ11・1〜45)

  3. 見えるという種 四旬節第4主日(ヨハネ9・1〜40)

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