私たちの目は、光があることによって周りの景色が見えます。光がなく真っ暗なところでは、周りに何があるのか、どのような所なのか全くわかりません。光の中には、2つの意味があるのではないでしょうか。一つは、周りの景色などを見るための光、そして、もう一つは、「希望の光」などというその人の人生や心の支えとなる光です。私たちにとって、両方とも大切ですが心で感じる光を大切にしていきたいですね。
きょうのみことばは、イエス様が、生まれつき目が見えない人を癒される場面です。みことばは、「イエスは通りがかりに、生まれつき目が見えない人をご覧になった。」という言葉から始まっています。イエス様は、みことばに書かれていませんが、「憐れ」に思われたことでしょう。弟子たちは、その人を見て「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。……」とイエス様に尋ねます。当時は、病気や不幸は、両親や先祖、または本人が犯した罪の結果だと信じられていたようです。
イエス様は、彼らに対して「神の業がこの人のうちに現れるためである。」と答えられます。イエス様は、奇跡によってその人を癒されるのではなく、その奥にあるもっと大切な信仰者として生きるために必要なものを得るために奇跡を起こそうと思われたのでしょう。イエス様は、地面につばを吐き、そのつばで泥を作って、その人の目に塗られて、「さあ、行って、シロアム——『遣わせた者』という意味——の池で洗いなさい」と言われます。彼は、出かけて行って洗うと見えるようになって帰ってきます。
彼の周りの人たちは、彼が見えるようになったのを見ると、どのようにして見えるようになったのかを知ろうとします。彼は、イエス様が自分にされたことを話します。しかし、人々は、彼が言ったことを信じられなかったのでしょう。人々は、彼をファリサイ派の所に連れていきます。ファリサイ派の人々は、どのようにして見えるようになったのかを尋ねます。ファリサイ派の人々は、彼の目が見えるようになったということより、その日が安息日で、イエス様がつばで泥を作って癒された、という行為について論じ合います。
ファリサイ派の人々は、「……お前は彼のことをどう思うのか」と尋ねます。彼は、「あの方は預言者です」と答えますが、それを認めないで、両親を呼び出し、彼らに「……では、どうして今は目が見えるのか」と尋ねます。両親は、「……誰が目を開けてくれたのかも知りません。息子に聞いてください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」と答えます。息子は、ファリサイ派の人々に「彼の方は預言者です」と答えたのに対して、両親ははっきりと答えずに「息子に聞いてください」と言います。
ファリサイ派の人々は、彼の目が見えるようになったことに触れず、イエス様が彼を安息日に癒したことを討議しています。私たちは、ここに大きな疑問を抱くのではないでしょうか。ユダヤ人たちが最初に彼に尋ねたのは、「どのようにしてお前の目を開いたのか」と尋ねていますし、ファリサイ派の人々も「どのようにして見えるようになったのかを尋ねた」とあります。しかし、いつの間にか「【誰が】見えるようにしたのか」ということが問題となっています。さらに、誰一人として彼に対して「見えるようになってよかったね」と言っていません。
彼は、ユダヤ人たちに「わたしは、あの方が罪人であるかどうか知りません。ただ一つ知っていることは、目が見えなかったわたしが今、見えるということです。」と言います。本来ならば、この一言が大切なのですが、ユダヤ人たちはそれだけではすまないようで、何度も彼に対して同じような質問をし続けます。彼は、再び「あの方がわたしの目を開けてくださったのです。……もしあの方が神のもとから来られたのではなかったなら、このようなことは何一つおできにならなかったはずです」と言います。ユダヤ人たちは、この言葉を聞いて彼を外に追い出します。このことは、ただ単に会堂から追い出すというのではなく、社会的、宗教的な意味での追放ということですから、そのことは彼にとって死活問題となるほどの事態だったのです。彼は、目が見えるようになったのですが、生きるためにはどん底に落ちってしまったのです。
そんな彼のもとにイエス様が再び現れ、「あなたは人の子を信じるか」と尋ねられます。彼は、「……わたしはその方を信じたいのです」と答えます。イエス様は、「あなたはその人に会っている。今、あなたと話しているのが、その人である」と答えられます。彼は再び「主よ、信じます」と答えます。彼のこの言葉は、信仰告白であり、身体的にも霊的にも本当の意味で見えるようになり、「光である」(ヨハネ8・12)イエス様を見ることができたのです。
私たちは、時として自分の歩んでいる道に疑問や不安という深い闇に陥ることがあるのではないでしょうか。イエス様は、そのような時に私たちの所に来られ「あなたは人の子を信じるか」と言われるのです。私たちは、あらためて光であるイエス様を信頼して見えるようになればいですね。
