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カトリック入門

第229回 第一の掟「ただ主に仕えよ」【動画で学ぶ】※レジュメ字幕付き

序)信仰・希望・愛の対神徳は倫理徳に魂を与え、これを生かします。こうして、愛は私たちが被造物として当然負っているものを神にお返しするようにと促します。この態度を取らせてくれるのが敬神徳です。

1 礼拝
*礼拝は、敬神徳の第一の行為です。神を礼拝するとは、そのかたを神、創造主、救い主、存在するすべてのものの支配者、無限で慈悲深い愛そのものであるかたと認めることです。イエスは申命記(6・13)を引用して、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」(ルカ4・8)と言われます。
*神を礼拝するとは、神によらなければ存在することはない「被造物の虚無性」を、尊敬と絶対的な服従の心をもって認めることです。神を礼拝するとは、「マリアの賛歌」の中でのマリアのように、神をたたえ、神をあがめ、自らはへりくだって、神は偉大なことを行われ、そのみ名は尊い、と感謝を込めて宣言することです。唯一神の礼拝は、人間を自分自身の殻から、罪の奴隷の状態から、この世の偶像崇拝から解放してくれます。

2 祈り
*第一の掟が命じる信仰・希望・愛の業は、祈りの中で実行されます。心を神に上げ、賛美と感謝、執り成しや懇願の祈りをささげることは、私たちの神への礼拝を表します。祈りは、神の掟に従うことができるための不可欠な条件です。「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」(ルカ18・1)とイエスは教えておられます。

3 いけにえ
*礼拝、感謝、嘆願、交わりのしるしとして、神にいけにえをささげるのは正しいことです。「私たちが聖なる交わりをもって、神と固く結ばれるためになすあらゆる行いこそ、真のいけにえです。すなわちそれらの行いは、私たちを真に幸福にしうる、あの究極の善とつながっているのです」。
*イエスは預言者ホセアの「私が求めるのはあわれみであって、いけにえではない」(マタイ9・13)ということばに言及しておられます。唯一の完全ないけにえは、御父への愛のために、また私たちの救いのために、イエスが十字架上で余すところなくご自分をささげられたあのいけにえです。私たちはキリストのいけにえと結ばれることによって、自分たちのいのちを神へのいけにえとすることができるのです。

4 約束と誓願
*キリスト者はしばしば神との約束を行うよう促されます。洗礼や堅信、結婚や叙階などにあたっては、常に約束を行います。また、個人的な信心のために、しかじかの行いや祈り、施しや巡礼などを神に約束することもできます。神に対して行った約束を忠実に果たすことは、偉大で愛に満ちあふれるかた、すなわち忠実であられる神に対してふさわしい崇敬をささげることなのです。
*「誓願、すなわち、可能でありよりよい善益について神に対し、熟慮の上事由になす約束は、敬神徳によって果たされなければなりません」。誓願とは、キリスト者が自分を神にささげたりよい行いをすることを神に約束したりする、信心の行為です。誓願を果たすことで、神と約束し、神に奉献したものを神にお返しするのです。使徒言行録には、聖パウロが自分が立てた誓願を果たそうと心を用いていたことを示す記述があります。
*教会は、福音的勧告を実践する誓願に特に大きな価値を認めています。

5 信教の自由の権利
*「すべての人間は、真理、とりわけ、神とその教会に関することがらについてのそれを探求し、知った上は、それを受け入れ、そして守る義務」を持っています。この義務は、人間の本性そのものに由来するものです。それにもかかわらず、キリスト者は「すべての人を照らす真理のある光線を示す」他の諸宗教に対してまじめな尊敬の念を払い、また、愛のために「信仰について誤謬あるいは無知の状態にある人たちに対して、やさしく、賢明に、忍耐をもって応対するよう」求められるのです。
*信教の自由の権利は、誤謬を奉じてよいとする道徳的許可でも、誤謬を選ぶ権利でもありません。それは国民的自由に関する人間の自然権です。すなわち、宗教的なことがらに関して、正当な範囲内では政治権力などからの外敵な強制を受けることはないという特権です。この自然権が公民権として社会の法的制度で認められなければなりません。

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