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カトリック入門

第226回 神の十戒【動画で学ぶ】※レジュメ字幕付き

序)キリストに従うということには、掟の遵守が伴うのです。律法が廃止されるのではなく、人が律法の完成者であり、自分の師であるかたのうちにその律法を再発見するようにと招かれるのです。
*イエスは、十戒を踏襲されます。しかし、十戒の文字を通して働かれる霊の力を明らかになさいます。

1 聖書に記されている十戒
*通常「十戒」と言われているものは、聖書の中では「十のことば(デカ・ロゴ)」という用語で表現されています(出34・28、申4・13、10・4参照)。神はこの「十のことば」を聖なる山でご自分の民に啓示されました。モーセによって書かれた他の掟とは異なり、「ご自分の指で」記されました。それは、特に優れた意味で神のことばであり、出エジプト記や申命記の中で私たちに伝えられています。すでに旧約時代から聖書が「十のことば」について言及してはいますが、その完全な意味はイエス・キリストによる新しい契約において明らかにされるのです。
*十戒は何よりもまず、旧約の中心をなす神による偉大な解放の出来事である、エジプト脱出を背景に理解されるべきものです。「十のことば」が否定的掟、すなわち禁止の形を取っているにせよ、あるいは「父母を敬え」のように肯定的掟の形を取っているにせよ、それらの「ことば」は、罪の奴隷状態から解放された生活の諸条件を示すものです。十戒はいのちの道なのです。
*十戒のその解放の力は、たとえば、寄留人や奴隷にも及ぶ七日目の安息の掟に表されています。
*「十のことば」は神の法を要約し、宣言するものです。「主は、山で、火と雲と蜜雲の中から、力強い声をもってこれらのことばを集まったあなたたちすべてに向かって告げ、それに何も加えられなかった。さらに、それを二枚の石の板の上に書いて私に授けられた」(申5・22)。したがって、この二枚の板は「掟」(出25・16)と呼ばれます。なぜなら、これが神とその民との間に結ばれた契約の条項であるからです。この「掟の板」は「箱」の中に納められなければなりませんでした。
*「十のことば」は、神が姿を現して述べられたものです。これらは、神がご自分とご自分の栄光についてなされた啓示に属します。掟とは、神ご自身およびその聖なるみ旨によって与えられた贈り物のことです。神はご自分のみ旨を知らせて、ご自分の民にご自身を啓示なさいます。
*十戒と律法の賜物は、神がご自分の民と結ばれた契約の一部を成しています。出エジプト記によれば、「十のことば」の啓示は、契約の提示とその締結との間になされました。その前に、民は主が語られたことをすべて「行い」、これに「従う」ことを約束しています。十戒は、契約に言及した後でなければ決して渡されていません。
*掟は、契約を通して初めてその完全な意味を表します。聖書によれば、人間の道徳生活は契約のうちに、また契約によってその全き意味を得ます。「十のことば」の第一は、神がご自分の民を先に愛されたことを思い起こさせます。
*すべての掟が第一人称で述べられ(「わたしは主である…」)、他者に向けられている(「あなた…」)ことによっても、十戒が神と人間との間で交わされる契約と対話であることが証明されます。神のあらゆる掟では、指示を与える相手のためには「あなた」という単数の人称代名詞が用いられています。神は民全体にみ旨を知らせながら、そのみ旨を一人ひとりの人間に個別に知らせておられるのです。
*神はご自分との友情関係、および隣人との和合に向け、人を十戒によって準備なさったのです。…[十戒のことばは]私たちキリスト者のもとでも同じように保存されています。それらは、主の、人としての来臨によって拡大され、増加されたとはいえ、廃止されたのではありません。

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