今日のみことばで、王が王子のために結婚の披露宴を催します。牛や肥えた家畜が準備されていますので、とても盛大な披露宴であることが想像できます。しかも王様から招待されたのですから、それを断るのはもってのほかです。
ところが招いた客は次々に断っていきます。しかも「無視して」と表現されています。この場合「無視する」はギリシア語で「アメレオー」が使われ、「注意を払わない」「世話しない」といった意味が込められています。つまり、この披露宴がさほど大事なものだとは思わなかったのでしょう。そのために一人は畑に、もう一人は商売に出かけてしまいます。そんな中で王は、「だれでもよいから、披露宴に来るように招き」ます。つまり異邦人であってもよいので招いていきます。こうして会場は客でいっぱいになっていきました。
ところが礼服を着けていない客について問いただされます。この流れからすると、急に招かれた人が礼服を着ていないためにつまみ出されたように感じます。招いたのにどうしてつまみ出すのかと…。王はとても勝手だなあと思いがちです。実際には、急に招かれた人ではなく、すでに以前から招待を受けていた人たちのことです。それは「友よ」という呼びかけから想像できます。つまり、すでにキリスト教の洗礼を受けているとか、ユダヤ教徒と思われる人たちです。異邦人であるなら、「友よ」と表現されることはないでしょう。このようなことから、披露宴の返事を事前に出し、礼服を準備する時間が充分あったにもかかわらず、礼服を着ていないことで王に問いただされ、つまみ出されても、文句の言いようがないでしょう。
「礼服を着ないで」とは、信仰の恵みを受けて神様から天国への招きを受けたにもかかわらず、その後努力せず、信仰の恵みを深めていくことができなかった状況として考えることができるのではないでしょうか。
