第5回は、一見美しい「神のために」が、神を遠くの採点者やクライアントのようにしてしまい、信仰を契約・義務へ変質させる危険を突きます。フランシスコの成熟は、神を目的として追いかける生から、神を同行者として生きる生への移行でした。自然や他者が兄弟姉妹に見えてくるのは、理念の成果というより、共に歩む神の息吹をあらゆる被造物に見つけてしまうからだ、という描き方です。
「祈らねば、成果を出さねば」という緊張が信仰を疲れさせるとき、重力をDoingからBeingへ移すことが提案されます。神を自己実現の材料として使役していないかという厳しい問いを経て、「神のために」を一度横に置き、「神様、ご一緒に」と隣で生きる感覚を優先する。義務の終わりが愛の始まりになる、という結びです。
1. 「神のために」という美しい罠
実りの秋、私たちは自分の「働きの成果」を神の前に持ち寄ろうとします。しかし、ここで私たちの信仰生活を支える最も根本的な動機を、あえて疑ってみる必要があります。
私たちはよく、「神のために」という言葉を使います。「神のために奉仕する」「神のためにこの苦しみを捧げる」「神のために良い人生を送る」。それは非常に尊く、正しい姿勢に見えます。しかし、この「神のために(for God)」という言葉の裏側に、ある種の「距離」と「孤独」が隠れてはいないでしょうか。
もし、私たちが「神のために」何かをしようと必死になっているとき、神様はどこにおられるでしょうか。もしかすると、神様を「遠くで私の働きを評価するクライアント」や、「達成すべき目標(ゴール)」のように扱っていないでしょうか。
2. 「目的」としての神から「同行者」としての神へ
聖フランシスコの回心の完成期において起きた最も劇的な変化は、彼が「神という目的のために何かをする人」であることをやめ、「神と一緒に生きる人(with God)」へと変えられたことでした。
若い頃のフランシスコは、神のために騎士になろうとし、神のために聖堂を修理しようとし、神のために貧しくなろうとしました。しかし、ラ・ヴェルナ山での十字架の刻印(聖痕)に至るプロセスの中で、彼は一つの真実に辿り着きます。
それは、神様は私たちが「何かをしてくれること」を待っているのではなく、「ただ一緒にいること」を望んでおられるということです。
神様は、私たちの人生という舞台の「客席」に座って採点している方ではありません。舞台の上で、共に汗をかき、共に泣き、共に歩んでおられる「共演者」であり、「同行者」なのです。
フランシスコが小鳥に語りかけ、狼と和解し、太陽や月を「兄弟・姉妹」と呼んだのは、彼が「神のために自然を愛した」からではありません。神という愛の源泉と一緒に歩いていたら、目の前のすべての被造物の中に、共に歩む神の息吹を見つけてしまった。ただ、それだけのことだったのです。
3. 「義務」という緊張から「関係」という安らぎへ
「神のために生きる」という意識が強すぎると、信仰生活は「義務」の積み重ねになります。
●祈らなければならない。
●寛容でなければならない。
●成果を出さなければならない。
このとき、神との関係は「(商業)契約」のようになり、私たちは常に「期待に応えられているか」という緊張感の中に置かれます。これが「信仰の疲れ」の大きな原因です。
しかし、フランシスコが示した「神と一緒に生きる」道は、緊張ではなく「関係」です。 友人と一緒に散歩をしているとき、私たちは友人のために何か特別なパフォーマンスをしようとは思いません。ただ、隣にその人がいることを喜び、景色を共有し、時折言葉を交わす。その「共にあること(存在)」そのものが目的になります。
フランシスコにとっての祈りは、義務としての「仕事」ではなく、愛する方との「デート」や「語らい」のようなものでした。彼が「わが神、わがすべて」と繰り返したのは、神が彼の「目標」ではなく、彼の「人生そのもの(環境)」になったからです。
4. 神を「使役」していないか
少し厳しい問いを自分に投げてみましょう。 私たちは、自分の理想とする「正しいキリスト者像」を実現するために、神様を「材料」や「道具」として扱っていないでしょうか。「神のために」と言いながら、実は「神を利用して、満足のいく自分を作り上げよう」としていないでしょうか。
もしそうなら、私たちは神様を「目的」として固定し、自分から遠ざけてしまっています。
「神のために何かをする」のを、一度お休みしてみませんか。 それよりも、朝起きた瞬間から、顔を洗うときも、食事をするときも、誰かと話すときも、「今、隣に神様がいて、一緒にこれを経験しているのだ」という実感を優先させてみてください。
信仰の重力が「Doing(すること)」から「Being(共にあること)」へと移動するとき、あなたの魂は初めて本当の休息を得るのです。
5. 今月の黙想の問い
この秋、収穫を神に捧げる前に、その「隣」に座っておられる方に目を向けてみましょう。
1.あなたが「神のために」と頑張っていることの中で、実はあなたを神様から遠ざけて(疲れさせて)しまっているものはありますか?
2.もし今日、神様があなたの活動の「上司」ではなく、ただの「散歩の連れ」だとしたら、あなたは神様とどんな話をしたいですか?
3.「神のために生きる」という緊張感を手放し、「神と一緒に生きる」というリラックスした関係に移行することを、自分に許せますか?
むすび:義務の終わり、愛の始まり
フランシスコは、死の間際まで「兄弟たち、主のために、今から始めよう」と言い続けました。それは「まだ仕事が残っている」という意味ではありません。「さあ、今この瞬間も、愛する神様と一緒に新しい一歩を踏み出そう」という、終わりのない関係への誘いでした。
あなたの信仰は、重たい義務であってはなりません。 それは、あなたを一番よく知る方との、軽やかな同行であるはずです。
今月は、「神のために」という言葉をそっと横に置いて、「神様、ご一緒に」という言葉を胸に歩んでみてください。世界が全く違った色に見えてくるはずです。
