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週日の福音解説

石を持つ手をほどく沈黙(四旬節第5月曜日)

ヨハネによる福音書 8章1-1節

1 イエスはオリーブ山へ行かれた。
2 朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。 3 そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、 4 イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。 5 こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」 6 イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。
7 しかし、彼らが問い続けやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」 8 そしてまた、かがみ込んで地面に書き続けられた。
9 これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。 10 イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」 11 女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」

分析

 この場面の緊張は、律法の是非ではなく、「誰が裁く位置に立つのか」という問いにあります。律法学者とファリサイ派の人々は、姦通の現場で捕らえた女を「真ん中」に立たせます。ここで彼女は人格ではなく、事例になります。律法解釈の材料、神学的議論の駒です。しかも男は登場しません。共同体の怒りは、可視化しやすい一人に集中します。真ん中に立たされたのは罪ではなく、人です。
 彼らの問いは明確です。「モーセは命じている。あなたはどう考えるか。」これは倫理的相談ではありません。イエスを律法に対立させる罠です。厳格に従えばローマ法に抵触し、赦せば律法軽視となる。二者択一の構図が準備されています。しかしイエスは即答しません。かがみ込み、地面に何かを書きます。この沈黙は、時間を稼ぐための技巧ではなく、議論の枠組みから距離を取る行為です。急いで答えを出すこと自体が、彼らのゲームに乗ることになるからです。
「罪を犯したことのない者が、まず石を投げよ」という言葉は、罪の有無を抽象的に論じるものではありません。石を持つ手に問いを向けます。律法の正しさを否定していませんが、その執行者の位置を揺さぶります。裁きは制度の問題であると同時に、主体の問題です。石を投げるという行為は、自分を安全な側に置くことで成立します。その安全地帯を崩す言葉がここにあります。
 年長者から去ったという描写は象徴的です。人生の時間を重ねた者ほど、自分の複雑さを知っているという含意があります。やがて皆去り、真ん中にはイエスと女だけが残ります。ここで初めて、彼女は事例ではなく人格として扱われます。「だれもあなたを罪に定めなかったのか。」問いは彼女に向けられます。彼女の声が回復されます。
 「わたしもあなたを罪に定めない」という言葉は、罪を軽視する宣言ではありません。続く「もう罪を犯してはならない」が示すように、行為は問題として残っています。しかし順序が逆転しています。まず断罪の停止、次に新しい生への呼びかけ。裁きによって未来を閉じるのではなく、赦しによって未来を開く構造です。ここで示されるのは、律法の廃止ではなく、石を握る手をほどく神の正義です。

神学的ポイント

裁きは制度以前に主体の問題である
 律法の条文よりも、石を持つ手が問われます。神学的に、正義の実行は執行者の自己理解を含みます。

沈黙は議論の枠組みを拒否する行為である

 地面に書く行為は、二者択一の罠から距離を取る姿勢です。神の知恵は、即応的な応答に還元されません。

断罪の停止が回心の前提となる

 「罪に定めない」という宣言が先に置かれます。赦しは罪の否定ではなく、未来を可能にする条件です。

共同体の暴力は可視化しやすい対象に集中する
 男が不在である事実は、選択的な正義の危険を示します。神の正義は偏りを暴きます。

真ん中に立たされた者が人格を回復する
 議論の材料とされた女性が、最後には対話の主体となります。神学的に、救いは声の回復です。


講話

 朝の神殿で、一人の女性が真ん中に立たされました。彼女は名前ではなく、罪の象徴として扱われます。律法の正しさを証明するための材料です。石はすでに握られていました。問題は、石を投げるかどうかだけに見えました。
 イエスはすぐに答えませんでした。かがみ込み、地面に書きます。沈黙は弱さではありません。急いで答えることが、すでに用意された罠に入ることになるからです。私たちもまた、白か黒かの選択を迫られるときがあります。しかし、その枠組み自体が問題であることがあります。
 「罪を犯したことのない者が、まず石を投げよ。」この言葉は、罪の定義を変えたのではありません。石を持つ手に問いを返しました。裁く立場に立つ自分は安全か。その安全は本物か。石は重くなります。一人、また一人と去っていきます。
 残ったのはイエスと女性だけです。彼女はようやく対話の相手になります。「だれもあなたを罪に定めなかったのか。」問いは彼女に向けられます。声が戻ります。人格が回復します。
 「わたしもあなたを罪に定めない。」この言葉は、罪を無視する宣言ではありません。続く言葉が示します。「もう罪を犯してはならない。」未来が開かれます。断罪で終わらず、新しい歩みが始まります。
 私たちは石を握る場面に何度も立ちます。正しさを守るために、誰かを真ん中に立たせることがあります。しかし、この場面は問いかけます。あなたの手は軽いか、と。正義は必要です。しかし、石を投げる前に、自分の立ち位置を確かめる必要があります。
 神の正義は、石を握る手をほどくところから始まります。断罪で閉じるのではなく、赦しで未来を開く。そのとき初めて、真ん中に立たされた人も、自分も、同じ地面の上に立っていることに気づきます。

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大西德明神父

聖パウロ修道会司祭。愛媛県松山市出身の末っ子。子供の頃から“甘え上手”を武器に、電車や飛行機の座席は常に窓際をキープ。焼肉では自分で肉を焼いたことがなく、釣りに行けばお兄ちゃんが餌をつけてくれるのが当たり前。そんな末っ子魂を持ちながら、神の道を歩む毎日。趣味はメダカの世話。祈りと奉仕を大切にしつつ、神の愛を受け取り、メダカたちにも愛を注ぐ日々を楽しんでいる。

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