序)聖書の中での安息日に関する箇所。
*「安息日を心にとどめ、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない」(出20・8~10)
*「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある」(マルコ2・27~28)。
1 安息日
*十戒の第三の掟は、安息日が聖なる日であることを思い起こさせてくれます。「七日目は、主の聖なる、もっとも厳かな安息日である」(出31・15)。
*聖書は安息日のことを語りながら、創造の業を記念しています。「六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」(出20・11)。
*聖書はまた、主の日がエジプトの奴隷状態からのイスラエルの解放の記念であることも明らかにしてくれます。「あなたはかつてエジプトの国での奴隷であったが、あなたの神、主が力あるみ手とみ腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るように命じられたのである」(申命5・15)。
*神は安息日を、破ることのできない契約のしるしとして守るためにイスラエルに委託なさいました。安息日は主のためのもので、神への賛美のため、その創造のみ業とイスラエルのために行われた救いのみ業への賛美のために、聖なるものとして残しておくべき日なのです。
*神のなさり方は人間のやり方の模範となります。神が七日目に「み業をやめて憩われた」(出31・17)のであれば、人間もまた仕事を「やめ」、他の人々、特に貧しい人々が「元気を回復する」ための機会を与えなければなりません。安息日は、日常の仕事をやめて休息をとることを可能にしてくれます。この日は仕事の奴隷になることや金に仕えることなどとは相いれない日なのです。
*福音書はたびたび、イエスが安息日の掟を破って非難された出来事を報じています。しかし、イエスは決してこの日の神聖さを損なってはおられません。そして、そのことについての真正な解釈を、権威をもってなさいます。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」(マルコ2・27)。キリストはあわれみの心をもって、安息日が、悪を行うよりは善を行い、殺すよりはいのちを救う日であることを正当化しておられます。安息日は主のあわれみの日であり、神を敬うための日なのです。「人の子は安息日の主でもある」(マルコ2・28)。
2 主日
*イエスは「週の初めの日」(マルコ16・2)に死者の中から復活なさいました。キリストの復活は、「初めの日」としては世界創造を想起させます。安息日の後の「八日目」としては、キリストの復活によって開始された新しい創造を示します。キリスト者にとっては、あらゆる日の中の最大の日、あらゆる祝日の中の最大の祝日、主の日、「主日」となりました。
*主日は、安息日とは明白に区別されます。暦の上では毎週安息日の後にやってくる日ですが、キリスト者にとっては安息日のユダヤ教的な儀礼に取って代わるものです。主日は、キリストの過越のうちに、ユダヤ教の安息日に込められた霊的真理を完成させ、神のもとにおける人間の永遠の休息を告げるものです。事実、モーセは律法によって定められた儀礼はキリストの神秘を準備し、そこで行われていたことはキリストにおいて成し遂げられるいくつかの出来事を示す前表だったのです。
*アンティオキアの聖イグナチオ『マグネシアの信徒への手紙』
「古い生き方で暮らしていた人たちが、新しい希望に移り、もう<土曜日の>安息日ではなく、主の日を守って生きるとしたら、私たちは、どうしてイエスなしに生きていかれましょうか。主の日に、私たちのいのちがイエスを通して、また、その死を通して表れたのです」。
*主日を祝うということは、「神がすべての者に共通に与えてくださる恩恵について考え、目に見える形で神を崇敬する」という人間の心に刻まれた倫理的掟を自然に守るということです。主日の礼拝とは、旧約の倫理的掟を果たし、毎週、創造主とその民の贖い主とを祝いながら、その周期と精神とを踏襲することです。

