書籍情報、店舗案内、神父や修道士のコラムなど。

カトリック入門

第215回 大罪と小罪【動画で学ぶ】※レジュメ字幕付き

序)罪の軽い、重いについて考えることも必要です。大罪と小罪との区別はすでに聖書に示されてはいますが、教会の聖伝の中でよりはっきりしたものとなりました。そして、さらに人間の経験によってその裏付けがなされています。

1 大罪と小罪
*大罪は、神のおきてに対する重大な違反によって、人間の心にある愛を破壊します。人間は神よりも低い何かを神に優先させることにより、自分の究極目的であり至福でもある神から遠ざかります。
*小罪は、愛に背き、愛を傷つけはしますが、愛を破壊するものではありません。
*大罪は、わたしたちのうちにある愛といういのちの源を破壊するので、神の憐れみの新たな働きかけと回心とが必要となります。この回心は通常、ゆるしの秘跡の中で行われます。
 「それ自体が人間が目指す究極目的である愛徳と相反することがらに意志が向かう時には、その対象ゆえに大罪に値することになります。例えば、神への愛に背く冒涜や偽証に類するもの、あるいは隣人愛に背く殺人や姦淫などがそうです。」
*罪が大罪となるには、三つの条件がそろわなければなりません。「重大なことがらについて、しかも、はっきり意識して、意図的に行われた」罪が大罪となります。
★重大なことがらというのは、イエスが金持ちの青年に回答された、「殺すな、姦淫するが、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え」(マルコ10・19)という十戒に明示されています。大罪にも軽い重いがあります。例えば、殺人は盗みよりも重いものです。被害者の質についても考慮に入れる必要があります。たとえば、肉親に対する暴力はそれ自体、他人に対する暴力よりも重くなります。
★大罪になるために、十分な知識と完全な同意とが必要です。行おうとしていることが罪であり、神の掟に反するということをあらかじめ知っていることが前提となります。また、熟慮の末に本人自身が認識したうえで行われたものであるということも前提となります。しかし、無知を装い、心をかたくなにして行われたものであれば、その人の罪は、ますます重いものとなります。
★自由意志によるものではない無知のために、重大な過ちの責任が減少されるか、免除されることがありえます。しかし、すべての人間の良心に刻まれた道徳律を知らない人はいないはずです。感覚の衝動や情熱、外圧や病理学的な障害もまた、過ちを犯した人の意志に影響を及ぼして、責任を軽くすることがあります。悪意による罪、悪を意図的に選択して犯す罪はもっとも重いものです。
*大罪は、愛そのものと同じように、基本的に人間の自由意志によって選び取ることが可能なものです。大罪は愛を喪失させ、聖性の恩恵、すなわち恵みの状態を失わせます。
*小罪を犯すのは、小さなことがらについて、道徳律によって定められた尺度を守らないとき、あるいは、重大なことがらについて、十分な認識又は完全な同意なしに道徳律に従わない時です。
*小罪は愛を弱めます。それは現世的なものへの乱れた愛着を表すものであり、徳を修め倫理的善を行う霊魂の進歩を妨げ、有限の苦しみを受けるに値するものです。意図的に小罪を犯し、悔い改めないままでいると、徐々に大罪を犯す傾向へと流されていきます。

2 罪の蔓延
*何度も罪を犯すことによって、人は罪を犯しやすくなり、同じ罪を繰り返すことによって悪徳を身につけます。こうして、よこしまな傾向が生まれ、それが良心を曇らせ、善悪の具体的な判断を誤らせることになります。こうして、罪はますます繰り返され、勢いづいてきますが、良心の根まで取り除いてしまうことはできません。
*悪徳は、その対立する諸徳に基づいて区分することも、聖ヨハネ・カッシアヌスや大聖グレゴリオに倣って、キリスト教で経験的に行われてきた、罪源に基づいた区分をすることもできます。罪源と呼ばれるものは、他の罪や他の悪徳を生み出すものだからです。それは、高慢、物欲、ねたみ、憤怒、貪食、色欲、怠惰の七つです。
*教会の教えの伝承によれば、「天に向かって叫ぶ罪」というものもあります。アベルの血、ソドムの人々の罪、エジプトで抑圧された民の叫び、寄留人や、寡婦、孤児たちの嘆き、雇われ人に対する不正、などが天に向かって叫ぶのです。

RELATED

PAGE TOP