書籍情報、店舗案内、神父や修道士のコラムなど。

これってどんな種?

最期まで癒されるという種 受難の主日(枝の主日)(ルカ23・1〜49)

 きょうの典礼は、枝の主日から始まりイエス様の受難へと向かいます。このことを思う時、人の心の変わりやすさ、残酷さが伺えます。人々は、エルサレムに入城するイエス様を「主の名によって来られた方、王に祝福があるように。天に平和、いと高き所に栄光」と言って迎えた数日後には、「その男を殺せ。」と平気でいうのです。イエス様は、そのような人々に対しても「アガペの愛」で赦してくださるお方なのです。

 きょうのみことばは、イエス様が捕らえられピラトから死刑の判決を下され、十字架に架けられて亡くなるまでの場面です。とても長い箇所ですが、イエス様の受難を黙想する良い箇所ではないでしょうか。

 みことばは、「そこで、全議員は立ち上がって、イエスをピラトのもとへ連れていった。」という箇所から始まっています。この少し前にイエス様が捕らえられて最高法院に連れて行かれ民の長老団、祭司長、律法学者たちの前で尋問された時にイエス様は「今からの後、人の子は力ある神の右に座る」(ルカ22・69)と言われます。彼らは、その言葉を聞き「これ以上、何の証言が必要だろうか。わたしたちが直接本人の口から聞いたのだから」(ルカ22・71)と言います。律法学者やファリサイ派の人々は、何度もイエス様を捕らえようとしたのですが、いつもイエス様に言い負まかされていました。しかし、この時はじめてイエス様を死刑にする証拠を見出すことができたのです。

 彼らは、イエス様をピラトの所に連れて行き、「……自分こそ王であるメシアだと主張いるのを確かめました」と事実を曲げて訴えます。ピラトは、もちろんイエス様に罪がないことを知っていたので3回も「わたしはこの男に罪を認めない」と言いまが、ユダヤ人の議員たちがイエス様を十字架につけるように主張し、大声で要求されたので仕方なく、彼らにイエス様を引き渡します。みことばには、「とうとう彼らの声が勝ち」とあります。この言葉は、まさに悪魔がイエス様に【勝った】と思った瞬間と言ってもいいのかもしれません。

 イエス様は、髑髏(されこうべ)と呼ばれる死刑場に自らの十字架を背負って引かれて行きます。その途中にキレネ人のシモンにご自分の十字架を運んでもらい、みことばには書かれていませんが、イエス様は、シモンに対しても慰め愛を持って接したことでしょう。また、イエス様は、ご自分のことを嘆き悲しむ女性たちのことを思って慰めていますし、ご自分を十字架にかけている兵士たちに対しても「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分が何をしているのかわからないのです」とご自分が不法な裁判を受け、侮辱され、これから十字架にかけられて死ぬ間際まで人々に関わり慰められます。

 さて、イエス様は十字架に架けられ、「……もし神のメシアで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ」と議員や兵士、さらに犯罪者からもあざけられます。イエス様は、メシア(救い主)としておん父からこの世に遣わされました。ですから、奇跡を起こしてご自分が十字架から降りることもできたことでしょう。もし、そのようにされたら人々は、イエス様がメシアであることを信じたかもしれません。この言葉は、荒れ野で悪魔がイエス様に「もしあなたが神の子なら……」(ルカ4・3、9)で言った言葉を同じなのです。悪魔は、再び人々の口を借りてイエス様を試みたのです。

 イエス様は、2人の犯罪者に挟まれるようにして十字架にかけられていました。1人の犯罪者からは侮辱されますが、もう1人の犯罪者からは、「イエスよ、あなたがみ国に入られるときは、わたしを思い出してください」と言われます。彼は、「自分を助けてください」と言うのではなく「ただ、自分を思い出す」だけでいいと願っています。彼のこの言葉は、自分の罪の告白であり、心からの救いを願っているのではないでしょうか。十字架刑は、ローマに対する反逆者に対してのものでしたから、この2人の犯罪者もイスラエルがローマからの解放されるために活動をしていたのではないでしょうか。その活動中に彼は、何度かイエス様の話を聞いていたのかもしれません。それで、「この方は、何も悪いことをなさっていない」と言ったのでしょう。イエス様は、ここでも彼に対して「……あなたはわたしとともに楽園にいる」と言われて慰められます。

 いよいよイエス様は、「父よ、わたしの霊をみ手に委ねます」と言われて息を引き取られます。イエス様は、ようやくおん父の所に行くことができたのです。イエス様は、悪魔の試みに対しても負けることなく、最期までおん父のみ旨を忠実に果たされました。それは、聖霊が共にいたからではないでしょうか。

 イエス様が息を引き取った後、百人隊長は、「まことに、この方は正しい人だった」と言って神を賛美します。彼もイエス様の最期の姿を見て、何かを感じイエス様を信じたのかもしれません。イエス様は、ご自分が最期を迎える時まで人を癒し、また、亡くなったあとも人を癒やしされます。イエス様は、常に「アガペの愛」で私たちに接してくださいます。私たちは、このイエス様の【アガペの愛】をいただいて歩んでいることに感謝することができたらいいですね。

RECOMMEND

RELATED

PAGE TOP