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カトリック入門

「カトリック入門」 第54回 アッシジの聖フランシスコ【動画で学ぶ】

 アッシジの聖フランシスコは、フランシスコ会の創立者であり、すべての被造物を通して神を賛美した。今の教皇は、フランシスコの名前をとり、「ラウダート・シ」という回勅を書いている。
 フランシスコは1181年ごろ、アッシジの富裕な織物商の息子として生まれた。身分相応の教育を受け、ラテン語、フランス語を学び、数学、詩歌、音楽の手ほどきを受けた。陽気で太っ腹のフランシスコは、町の人気者となった。
 19歳の時、軍人となり、アッシジ軍に加わってペルージャと闘うが、負けてしまい、一年間、ペルージャに抑留された。その後、キリストの声にしたがって貧しい生活をする決心をし、粗末な衣服を着て、ローマへ巡礼に出かけた。
 ローマでは一人のハンセン病の患者に出会い、お金を与えたうえ、その手に接吻した。その瞬間、患者の顔を見ると、キリストの顔に見え、心の安らぎを感じた。これは、その当時にとっては謙遜な行為であった。
 アッシジに戻ってから壊れたサン・ダミアーノ聖堂で祈っていた時、十字架から声が聞こえた。「フランシスコ、早く行って私の家を修理しなさい。今にも倒れそうだから」と。
 フランシスコはさっそく、父の倉庫に入って多くの品物を取り出し、それを売って聖堂を修繕するために寄付した。父は非常に怒ってフランシスコを司教の前に連れて行ったところ、彼は自分の着ていた衣服を脱いで父に返し、「これで私は、天におられる神を御父ということができます」と言った。
 こうして二年間、修道生活をするかたわら、サン・ダミアーノ聖堂の修復、ポルチンクラ聖堂の修復、サンタマリア・デリ・アンジェリ聖堂の修復にあたった。
 キリストの言葉をフランシスコは文字通りに実行し、旧市街から4キロ離れたリヴォトルトで同志を集めて、彼らのために生活の規則を作った。彼らの清貧と愛の生活は「地の塩、世の光」となって周囲の人々を感化していった。それで、フランシスコは弟子を連れてローマへ行き、時の教皇インノチェンチウス三世から許可を得て、「小さき兄弟会」(Ordo Fratres Minores)、のちにフランシスコ会と呼ばれる修道会を創立した。
 その後、アッシジ近郊のポルチンクラ聖堂を根拠地として、福音を伝えた。そして、太陽、月、星、風、空気、曇り、空、水、火、大地、人、死、すなわちすべての被造物を動員して神を賛美した。フランシスコにとってはすべての被造物が兄弟であり、姉妹であった。
 1212年からは、アッシジのクララを指導し、クララと共に、第二会の「聖クララ会」が創立された。
 1215年11月、第四ラテラノ公会議が教皇インノチェンチウス三世によって開催され、フランシスコも出席した。この公会議でドミニコにも出会っている。清貧に生きる者同士、協力を約束した。
 1216年7月、教皇が亡くなり、ホノリオ三世教皇が選出された。会の認可。
 1224年、彼は40日間の断食を始めたが、その間にキリストの受難を深く観想して、聖痕を受けるという特別な恵みを受けた。
 1226年、フランシスコは清貧の中に感謝の心で死を迎え、キリストのもとに帰った。
 聖フランシスコが晩年に作詩した「太陽の賛歌」、「平和のための祈り」は有名である。

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