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カトリック入門

「カトリック入門」 第13回 12使徒と教皇【動画で学ぶ】

•4人の弟子たち
 イエスは宣教活動の初めに、4人の弟子を選んでいきます。(マタイ4・18~22)
 「ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ」。彼らは漁師だった。
 「ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ」。船と父を残してイエスに従う。
 素朴な漁師たちを弟子に選んでいく。

2)12人の使徒
12人の弟子を呼び寄せる。(マタイ10・1~4)
 徴税人マタイも入っている。
 「イスラエルの家の失われた羊のもとへ行きなさい」(マタイ10・6)
 問題があるところへ派遣されていく。

•教皇
*ペトロの信仰告白と首位権の約束(マタイ16・13~20)
 イエスは一体誰?
 「あなたは生ける神の子、メシアです。」
 イエスは「あなたはペトロである。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。これに打ち勝つことはできない。あなたに天の国の鍵を授ける」

*ペトロの否認(マタイ26・69~75)
 ペトロは三回、イエスのことを否む。
 外に出て激しく泣く。
 ペトロは逆さ十字架の刑で亡くなった。

*ペトロの後継者は教皇
 現在の教皇フランシスコは266代目になる。

*教皇の呼び方
 バチカン(一般的)
 聖座(Santa Sede) 聖なる椅子 → Santo Padre(聖なるお父さん)
 Papa(お父さん)
 (ローマ)教皇庁・法王庁
 Pontifex(橋渡し)
 HOLY SEE

★歴代の教皇
レオ13世(1878年2月20日~1903年7月20日)
 ・社会の問題に対して関わる。(レールム・ノヴァールム)
 ・Tametusi Futuraという霊的な文書

ピオ10世(1903年8月4日~1914年8月20日)
 ・典礼改革に貢献。
 ・1914年8月20日に亡くなるが、ちょうどこの日は、パウロ会の創立記念日。

ピオ12世(1939年~1958年)
 ・戦争もあり、苦労する。

ヨハネ23世(1958年~1963年)
 ・80歳にして教皇になり、公会議を開催する。
 ・ヨハネ23世というのは、複数の教皇がいたので、歴史的な決着も。

パウロ6世(1963年~1978年/モンティーニ)
 ・公会議を引き継ぐ。パウロ会の創立者アルベリオーネ神父とも、昔からの旧友。
 ・1971年11月26日の午後5時30分に創立者は亡くなるが、亡くなる1時間前に訪問してくれた。

ヨハネ・パウロ1世(1978年8月~9月)
 ・霊的に深い教皇。牧者のイメージ。

ヨハネ・パウロ2世(1978年~2005年)
 ・人気がある。1981年2月に来日した。
 ・広島での平和アピール
 ・戦争は人間のしわざです。
 ・戦争は人間の生命の破壊です。
 ・戦争は死です。
 ・過去をふり返ることは将来に対する責任を担うことです。
 ・再び戦争のないように力を尽くそうではありませんか。という有名な言葉。

ベネディクト16世(2005年~2013年)
 ・交通整理。謙虚な教皇

フランシスコ(2013年~現在)
 ・1936年12月17日にアルゼンチンに生まれる。ホルヘ・マリオ・ベルゴリオ。
 ・イタリア系の移民の子として生まれ、父はピエモンテ州のポルタコマーロ出身の鉄道職員で、母もイタリア系移民の子で、ブエノスアイレス出身。夫婦は中流の労働者階層で五人の子供を持ち、ホルヘは幼少期に感染症によって右肺の一部を摘出している。
 ・1958年3月11日にイエズス会に入会。
 ・1969年12月13日に司祭に叙階された。
 ・1970年に修士号を取得。1972年から1973年の間、修練長を務め、神学の教授、管区顧問、神学院院長に就任した。その指導力をかわれ、1973年7月31日にアルゼンチン管区の管区長となった。1979年まで6年間務め、1980年から1986年まで神学院の院長、サン・ホセ小教区の主任司祭を務めた。1986年3月にはトイツで博士号取得のため、イエズス会の神学院で勉強。ドイツの神学者ロマーノ・グアルディーニに興味を示す。その後、アルゼンチンに帰国し、サルバドーレ学院の院長、コルドバで霊的指導者・聴罪司祭を務めた。1987年、宣教活動視察のために日本を訪問している。
 ・1992年5月20日にヨハネ・パウロ二世によってブエノスアイレスの補佐司教に任命され、1997年6月3日には、ブエノスアイレスの協働司教に任命された。翌年の2月28日にクアラチノ枢機卿が亡くなり、その後継者としてブエノスアイレスの大司教となった。
 ・2001年2月21日にヨハネ・パウロ二世によって枢機卿に任命された。
 ・宮殿のような司教館ではなく小さなアパートに居住し、お抱えのリムジンの使用を拒否して公共交通を利用していたベルゴリオ枢機卿は、個人的な謙遜と教義上の保守主義と社会正義への関与で知られるようになった。
 ・2005年、ヨハネ・パウロ二世が亡くなり、その直後の使徒座空位の間には、ベルゴリオはカトリック教会を暫定的に統治する枢機卿団の一人となり、新教皇を選出するコンクラーベにおいて選挙枢機卿の一人として参加した。
 ・このコンクラーベでベルゴリオは新教皇の有力候補の一人であったという。2005年9月、少数の枢機卿による非公式の日誌が公表され、そこでは、ベルゴリオ枢機卿が、新教皇の最有力候補であったランッツィンガー枢機卿の主要な挑戦者として取りざたされていた。三回目の投票でベルゴリオは40票を獲得し、4回目にして最後の投票で26票と数を落とした。ベルゴリオは自分に投票しないように感情的に請願を出すにいたったという。こうしてラッツィンガー枢機卿がベネディクト16世教皇として2013年まで在位した。
 ・ベネディクト16世教皇が2013年2月28日に辞任し、3月12日からコンクラーベが実施された。新教皇の選挙権を持つ80歳未満の枢機卿115名による5回目の投票で新教皇が選出された。コンクラーベ前、ベルゴリオは76歳だったので、マスコミからは有力候補とはみなされなかった。マスコミの予想とは裏腹に、枢機卿全体の三分の二を大きく上回る90票以上の得票をもって選出されたという。
 ・教皇の第一声は興味深い。「兄弟姉妹の方々、今晩は。ご存じのようにコンクラーベの義務はローマに司教を与えることですが、兄弟である枢機卿団は、ローマの司教を得るために世界の果てまで行ってきたようです。
 ・何よりもまず、名誉教皇ベネディクト16世に主の祝福と聖母のご加護がもらされるように祈りましょう。」
 ・街頭で社会問題について鋭く指摘する。迫力がないので、その部分はスペイン語になり、字幕となった。
 ・メディアに対しての初の会見では、「私は貧しい人々による貧しい人々のための教会を望む」と。

★使徒的勧告『福音の喜び』

20 出向いていく教会
 アブラハムは新しい土地へと出ていくように呼びかけを受け入れる(創12・1~3)
 エレミヤ召命(エレ1・7)→「行け」
 自分にとって快適な場所から出て行って、福音の光を必要としている隅に追いやられたすべての人に、それを届ける勇気が持つように招かれている。

24 福音宣教者には、「羊の匂い」がしみており、羊は彼らの声を聞く。福音宣教する共同体には、「寄り添う」用意があり、すべての道のりを人類とともに歩む。

49 出向いて行きましょう。…私は、出て行ったことで事故にあい、傷を負い、汚れた教会のほうが好きです。閉じこもり、自分の安全地帯にしがみつく気楽さゆえに病んだ教会よりも好きです。…外には大勢の飢えた人がいます。

85 熱意と大胆さを抑圧する深刻な誘惑の一つ、それは敗北感です。敗北感によって私たちは、不平を抱き幻滅した暗い顔の悲観主義者になってしまいます。パウロの言葉を思い起こしましょう。「力は弱さの中でこそ十分に発揮される」(二コリ12・9)

287 新たな福音宣教の星

 福音宣教という名のこの巡礼には、不毛の時も、結果が表れ出ない時もあり、かなり疲れてしまうことさえあります。それは、ナザレでイエスが成長するまでの間、マリアがナザレで過ごした年月のようなものです。

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