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カトリック入門

「カトリック入門」 第14回 宣教者聖パウロ【動画で学ぶ】

聖パウロを知るために
 資料となるものは、大きく分けて三種類ある。
 第一に、パウロ自身が書いた手紙。ローマ、一コリント、二コリント、ガラテヤ、フィリピ、一テサロニケ、フィレモン。
 第二に、パウロの名前で記された手紙。エフェソ、コロサイ、二テサロニケ、テモテ第一、テモテ第二、テトス
 第三に、使徒言行録の中のパウロに関する記述。(パウロの死後25年後に書かれる)

パウロの召命
 パウロは自らを次のように紹介。「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロ」(ローマ1・1)。
 パウロが「しもべ」(ギリシア語で「ドゥーロス」)ということばを用いたのは、主イエスに完全かつ無条件に属する関係を示すためだった。「ドゥーロス」はヘブライ語の「エベド」(‘ebed)の訳。このことばは、神が重要かつ特別な使命のために選び、召し出した偉大なしもべを意味する。パウロは自分が「召されて使徒となった」ことを自覚。
 パウロが選ばれたのは「神の福音を告げ知らせるため」(ローマ1・1)、すなわち神の恵みの知らせを言い広めるため。

パウロの性格
 パウロは人前でうまく話せなかった。パウロはモーセやエレミヤと同じように雄弁の才能を欠いていた。
 「あなたがたの間で面と向かっては弱腰だが、離れていると強硬な態度に出る」(二コリ10・1)
 「あの大使徒たちと比べて、わたしは少しも引けは取らないと思う。たとえ、話しぶりは素人でも、知識はそうではない。」(二コリ11・5~6)
 パウロの反対者はパウロについて「弱々しい人で、話もつまらない」(二コリント10・10)と。パウロが使徒として特別な成果を上げることができたのは、優れた雄弁や洗練された護教と宣教の計画のためではない。彼がキリストに完全に献身しながら自ら福音の告知に努めたことによる。

パウロが手紙を書いた背景

<ローマ書>
 ローマの教会(アクラとプリスカ夫妻が活躍する)
 ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者が混在していた。
 49年にユダヤ人追放令(クラウディウス帝)。異邦人キリスト者が残る。
 この時にアクラとプリスカもローマから追放される。(使徒18・1~3、一コリ16・19参照)
 54年にネロ皇帝がこの追放令を解除する。ユダヤ人が戻ってくる。
 この二つの間にトラブルが生じる。その調停のため「ローマ書」を書く。

 手紙の内容
 ・ロマ8・28:共に働く
 ・ロマ11・11~12:互いに愛する
 ・ロマ12・15~16:互いに思いやる

<コリント書>
 本書は、コリントにある教会に宛てたパウロの手紙の一つ。
 4通の書簡の可能性
 ①最初の書簡は、一コリ5・9で言及されているもので、今日ではない。
 ②二番目の書簡は第一の手紙
 ③中間の書簡(二コリ2・1~4によれば、悩みを携えて行く訪問の代わりにこの書簡を書く
 ④第二の手紙
 コリントの教会からの問いに対する答えで、固有な問題と状況を論じたもの。
 コリントの都市は、政治的というよりも、アドリア海とエーゲ海の二つの海に面した二つの港を持つ交通の要衝として商業的な意味で重要であり、そこで多種多様の人々が行きかう自由な空気が支配する文化的中心地。多くの記録や遺跡は、市場、劇場、浴場、競技場、神殿が、住民の生活様式と深くかかわっていた。都市型の生活スタイル。楽天的な生活や空気は、社会的、道徳的、宗教的乱れが生じた。東方からローマへの貿易の拠点。コリントには60万人いたが、その3分の2は奴隷だった。また神殿娼婦が1000人近くいて、「コリント娘」と言えば「売春婦」と言われるほどだった。
 手紙のテーマは「一致」。
 パウロはコリントに1年6か月滞在(おそらく49年から51年にかけて)。54年春頃、エフェソからこの手紙を出している。

 手紙の内容
 ・一コリ1・10:一致
 ・一コリ3・1~7:成長させてくださるのは神
 ・一コリ12・12~14:一致
 ・二コリ12・10:弱いときにこそ強い

<ガラテヤ書>
 パウロが3年間、エフェソに滞在した時(54~57年)に書かれたと思われる。彼はアンティオキアからエフェソに戻る途中、ガラテヤの諸教会を再度訪問したばかりであった。エフェソに戻った時、自分の教えたこととは全く異なっていることに気づく。アブラハムの実例を挙げ、信仰によってこそ人間が神に正しい者とされることを述べる。(ガラ3~4章、ローマ4章参照)

 手紙の内容
 ・ガラ2・20:キリスト全体
 ・ガラ3・1~3:物分りの悪い人々
 ・ガラ4・19:キリストが形作られる

<フィリピ書>
 マケドニア州のフィリピの教会は、ヨーロッパにおいてパウロが設立した最初のものである。パウロがフィリピにやってきたのは、紀元50年ごろのことであり、彼の第二回宣教旅行の途中、小アジアのエーゲ海に面したトロアスで幻を見たことがきっかけである。(使徒16・9)
 本書簡に登場するエパフロディト(2・25)、エボディア、シンティケ(4・2)などのギリシア系の名前からみると、フィリピの教会の人々は大部分が異邦人であったようである。3章の内容から判断すると、パウロが去って後、間もなく、ユダヤ化主義者たちが異端を持ち込み、フィリピの教会に混乱をもたらしたものと思われる。
 執筆地は、以前、ローマでの軟禁中とされたが、現在ではエフェソとされ、54~56年頃書かれた。

 手紙の内容
 ・フィリ1・15~18:獄中のパウロ
 ・フィリ2・14~18:喜びをもって
 ・フィリ4・4~7:喜び

<一テサロニケ書>
 一テサロニケはキリストの死と復活後、約20年後の紀元50年頃、パウロはローマ属州のテサロニケに手紙を書く。当時、彼が滞在していたコリントのテント造りのアキラの家(使徒18・1~3)で書かれたのだろう。これはテサロニケ教会設立の数ヶ月後。
 この書は新約聖書で最初に書かれたもので、これは新約聖書が書きとめられる発端ともなった聖書。

 手紙の内容
 ・一テサ1・9~10:神に仕える
 ・一テサ5・1~10:来臨

宣教者聖パウロの生き方

①パウロの召命(回心)
 パウロの歴史的事実
 パウロはユダヤ人でファリサイ派。ヘブライ人の中のヘブライ人。ディアスポラの中で生きる。(ガラ1・13~15)

②回心後のパウロ
 イエスに出会ってから、パウロはもっとも貧しい生活をした。キリストの生活を完全に生き、手に仕事をして生きること。旅行中、皮を切るハサミや布を縫う針と糸を持参していた。市場(アゴラ)で仕事を探していた。雇い主は彼に嫌な仕事をさせ、彼の指はとても傷ついていた。パウロは一人の奴隷のように見えた。これはパウロ自身が選んだ道でもあった。
 パウロはユダヤ人から迫害されることを望み、それに対してキリスト者からは信用されなかった。(ステファノを迫害したので)。両方からきついめにあった。でもパウロは全てを捨て、この事実を受け入れていった。

④パウロの使徒としての理解
 ガラ1・15~16からの引用。
 母の胎内の表現はイザヤ、エレミヤからとられている。つまり自分を預言者と同じレベルにおいている。神の無償の恵みによって…。

⑤パウロに対する二つのグループ
1 ユダヤ教徒のグループ(エルサレム共同体)
 ユダヤ教から改宗した人たちで、キリスト教徒でもモーセの律法を遵守。ペトロやヤコブがリーダーであった。パウロは律法(特に割礼)の遵守は必要ないと説く。それに対して反発があり、パウロは苦しむ。同時にパウロの宣教が妨げられた。(ガラ2章参照)

2 アンティオキアの共同体
 パウロを受け入れ、ギリシア的環境にあった。エルサレムよりも寛大にパウロを受け入れる。バルナバとパウロを宣教へと送り出す。しかし、パウロとペトロが口論した時(ガラ2・11)、恐れを感じる。それでアンティオキアの共同体はエルサレムの共同体と手を結び、そのためにパウロは苦しむ。パウロが宣教しようとすると、それを壊そうとする共同体があった。

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