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信心のすすめ

使徒の女王マリア──信心のすすめ(7)

 「愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(Ⅰヨハネ 4.8-10)

Ⅰ 聖パウロは、「私を愛しておられる神のおん子の信仰に生きる」(ガラテア2.20)と言っています。

 おん子は私たちの偉大で聖、力あり美しくかつ英知にみちた神であります。それにもかかわらず私を愛してくださいました。他のあらゆる被造物、聖母マリアにまさって私を愛してくださいます。何という恵み、何というほまれ、何という喜び!

 おん子はちっぽけな私を愛しています。大海に落ちた水滴のような私、しかも数億の人間、天使、被造物の間にある私を、私は無にひとしいものです。草木の葉の上にしたたりおち、太陽の光りにすぐさま蒸発してしまうようなひとしずくのつゆのような私を。

 おん子は、罪深い私を愛しています。このように小さく、しかも頑固な罪人である私、しかも今なお自分の神に反抗し、神を悲しませている私を。私は、汚物を出す腫れ物のようなものです。

 おん子は、とても悪い私を愛しています。私は一つの使命に呼ばれました。神は私の上にご計画を持っておられました。しかし私は何回となくそのご計画をうちこわしてしまいました。おん子は私を放棄し処罰することもできました。しかし寛大にも、まだ、現代でも、ご自分の心に、「私のところに来なさい」と招いておられるのです。

Ⅱ おん子は、罪をおかしつづけるかたくなな私と競争するかのように、ご自分の愛によって私を獲得しようと一生懸命に、ご自分の恵みをふやしながら私を愛してします。

 おん子は真剣に私を愛しました。「おん父が私を愛されたように、私もあなたがたを愛する」と。おん子は、私が怠慢、冷淡、倫理的汚れにそまっているにもかかわらず、私を愛しました。

 おん子は、寛大に私を愛しました。彼は私の愛からどのような利益を得たでしょうか。それにもかかわらず、「おん子は私を愛し、私のためにいのちを与えた」のです。

 おん子は私を愛し富ませてくださいました。偉大な人によってではなく、神のおんひとり子イエスによって愛されるとは、何という名誉でしょう! 私は神のおん子に愛されたのと同じようにほまれを受けたのです。

 無辺の富があります。なぜなら、イエスは、ご自分の友人たちに、天上の英知の宝、あらゆる困難とはくがいにおいて力、永遠の善である天国のための恩恵と報いを与えてくださるからです。

 しあわせがあります。なぜなら、たとえ貧しく病弱で軽蔑されても、聖人たちは喜びにみたされ、彼らは自分の身分を、富める者や権力者、地上の偉大な人々の身分ととりかえなかったからです。

・糾明──愛されているように愛しているだろうか。イエスに愛されていることを喜んでいるだろうか。寛大に、堅忍し、謙遜にイエスを愛していることを具体的に証明しているだろうか。
・決心──私は救い主の泉からすべてを汲みたい。ここにだけ、いつもまたすべての喜びがある。

『信心のすすめ-自己の聖化と人々の救いのために』アルベリオーネ神父(サンパウロ・1974年)
※現代的に一部不適切と思われる表現がありますが、当時のオリジナリティーを尊重し発行時のまま掲載しております。

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