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信心のすすめ

マリアの使徒職──信心のすすめ(8)

 使徒職には、まず第一に内的生活が大切です。それは必要なものであり、何にもかえることのできないものなのです。そしてまた、これはすべての人にとって義務なのです。自己の浄化のために働く人は、すべての人々のために働くのです。負債と欠点がなくなれば、教会はもっと完全に、もっと栄光にかがやいていくのです。獲得された諸徳は、おん父の前で、あたらしいかがやきをはなつのです。

 天父がキリストに言ったように、カトリック教会にも、天からその姿をあらわしになって、「これこそ、私の気に入った私の子である。これに聞け」ということもできるのです。聖三位一体のつぎに、いかなる存在物も、イエス・キリストの神秘体、教会のように活発で、活動するものはないのです。

 第二に、使徒職が来るのです。各人がなすべきことは、欠けているところ、受難の欠けたところをみたすことです。

 第三の使徒職。模範による使徒職が大切です。徳は、各人に奇跡のように教義を信じうるものとしますし、キリスト教生活を愛すべきものとします。そして心の恩寵をかがやかすのです。

 ことばと出版の使徒職、宣教、青少年、学校などの使徒職がそれに続くのです。

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 神は、イエスのすべての使徒職に、マリアがその一部分を占めることをおのぞみになりました。救い主の地上の生活においても、ご自分の光栄ある生命においても。

 マリアは、聖師の聖体的な使徒職全体に参与しています。ミサにおいても、聖体拝領においても、聖体訪問においても、私たちはいつもホスチアのイエス、マリアのおん子を見い出すのです。イエス・キリストの功徳の適応は、カルワリオから世の終わりにいたるまで、マリアによってなされるのです。馬小屋にも、イエルザレムの神殿にも、またカナにも常にマリアはいるのです。イエスは、ベトレヘム、エジフト、ナザレトで、その聖性をもつ師だったのですが、徳の実践にあたっては、マリアが彼につきそったのです。彼女は通常、イエスの説教に際して忠実に従っていました。カルワリオ山上のいたましい瞬間にも、たちあわれたのです。彼女はその心の中に、その腕の中に生まれたての教会をたずさえ、今日では、それを防御しなぐさめ、生かしているのです。マリアは救うために生まれ、生き、そして現在の身分になられたのです。

 実にイエス・キリストは、すべてをマリアとともになしとげましたし、なしとげるのです。私たちは、たしかにマリアが、イエスにおいて実現された一致と依存にまで達することはできませんが、彼女に近づけば近づけくほど、結果はもっと美しく、数多くなっていくでしょう。使徒職、マリアによって、マリアをとおして、マリアとともに、マリアにおいてなされなければならないのです。

 おおマリア、あらゆるはその恩寵のゆえに、私たちの債務者なのです。というのは、神が、非常にあわれな私たちをごらんになり、あなたを私たちのため、富める者、あわれみのあるものとなしたからです。あなたは、多くの聖寵を見い出しましたが、それは私たちのためなのです。おおみ母よ、助けてください! もっと、あわれみをほどこしてください。多くの霊魂たちを救えば救うほど、あらゆるの勝利はより光栄あるものとなり、より多くの賛美と感謝を、もっと多くの子どもたちと、もっと聖なる人たちから受けるでしょう。そしてそれは、あらゆるの冠となり、喜びとなるでしょう。あなたをほめたたえるに、私がふさわしい者としてください。しかし、あなたのあわれみを人々に示しながら、あなた自身に光栄あらしめてください。

 「すべての神的なことがらのうちで、もっとも神的なことは、霊魂の救いのために神に協力することである」(アレオパグの聖ディオニジオ)さて、マリアの使徒職は、イエスの使徒職とはことなったものではありますけれど、同じひろがりを有しているものです。

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 マリアはイエスの母です。そして教会の母でもあるのです。マリアは天使のお告げによる受肉の際、イエスの母となり、受難の際、「これがあなたの母です」というキリストのことばによって、教会の母となったのです。彼女は、ふさわしく肉体をとられたキリストのために有していた配慮と義務とを、キリストの神秘体である教会に対して持っているのです。

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 マリアの使徒職は唯一のものです。旧約聖書においてマリアは、救い主をもたらす者として待たされていました。彼女の地上の生活中、イエスの昇天まで、次にご昇天から至福な被昇天まで、そして今日では、天上から世の終わりにいたるまで、いつもイエスを与えるまで、いつもイエスを与えるのです。

 マリアこそは、神の母、共贖者、使徒、仲介者なのです。聖母のわざに関して、考察されるいろいろな観点、様式、時期というものがあります。地上の楽園で、神は、彼女を共贖者と呼びました。なぜなら彼女は神の母となるからです。彼女は使徒なのです。なぜなら神の母であるからです。使徒であるために神の母なのです。彼女は使徒、つまり、≪子を生む者≫、救世主を生むものとして待たれていたのです。母となりました。しかし、天使のことばへの受諾と受肉は、母、使徒となすものなのです。そして共贖者、時代への仲介者です。なぜなら神の母ですから、そしてまた、世界にイエスを与える使徒職を続けるために仲介者なのです。

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 天上の使徒職は、地上の使徒職の継続なのです。生命は、死によって破壊されるものではなく、変えられるものなのです。ペトロとパウロは、常に教会の保護のために嘆願されています。天上から、彼らが生前有していた同じ使命を、彼らは続けているのです。ただその様式をかえるだけなのです。「生命はかえられるけれどもとりさられる」のではないのです。マリアは天上から、全時代と全地域にわたって、霊魂と、全人類にキリストを与え続けるのです。ちょうど彼女がイエスをヨセフと牧者と東方の博士たちにさし出したように。

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 何らかの形ですべてのキリスト者は、使徒職に義務づけられています。それは必要なことでもあります。諸聖人の交わりによって、聖寵のうちに生きるすべての霊魂たちが、使徒職を実施するのです。健康な各肢体は、何らかの尺度において、全体の健康と善益に貢献するものです。この世でも、のちの世でも。教会は一つの社会なのです。それはキリスト、マリア、天上の福者たち、煉獄の霊魂たち、地上の聖人たちからもわかるように、超自然的な社会です。そこには唯一の頭、すなわちキリストと、唯一の頭、すなわちマリア、ならびに多くの肢体があるのです。すべての中に常に唯一の血が通うのです。つまり救世主の血が。生命は唯一のもの、つまり聖寵があるだけです。各人が聖寵に到達するとき、生命原理に達するのです。

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 多くの考えと努力は徒労に終わり、多くののぞみとことばは、非効果的なものであり、多くの手段と改善は無益なものとなります。

 しかし、すべてはキリストとマリアの中にあるのです。

 キリストの中に。つまり、教会には多くのしかも熱心な司祭たちがいます。しかし、二千人あたり一人の司祭を有するためには、まだ六千万の司祭がたりないのです。

 マリアの中に。司祭的かつカトリック的養成と使徒職において、マリアは、そのおん子に関して、母親の一部分を占めているのです。

 道はキリストです。さて、キリストはすべてをマリアから受けとり、すべてをマリアに委ねました。道はこれなのです。

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 マリアはキリストに次ぐ使徒であり、キリストとともに使徒なのです。神は、マリアをとおして、すべての善を伝達し続けるのです。神は「女よりなった」キリストが、マリアをとおして私たちにやって来ることをおのぞみになったのです。たとえ生命の原理は神にあるとしてもすべての子どもたちは、その生命を母から受けるものです。母なくしては子どもはありえませんし、マリアなくして救いはないのです。すべての使徒職と真の使徒は、マリアによって生命を得、活力を得るのです。ちょうど最初の使徒キリストがそうであったように、「私たちは、私たちの大司祭、使徒キリストを持っています」。

 こうして、キリストの使徒職は、マリアによってカナではじめられましたし、使徒たちの使徒職も、マリアによって高間によってはじめられました。またこうして、各世紀におけるすべての力ある使徒は、マリアによってはじめられました。神なくしては、存在するものはありませんし、マリアなくしては、キリスト教会の中には何も存在しません。

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 マリアは、三つの理由により、「使徒の女王」です。つまり、彼女はすべての使徒たちが有して、なしとげ、なしとげるすべてのものを有し、なしとげるのです。さらに、すべての使徒たちに先んじ、彼らにまさる使徒職を有し、なしとげるのです。そしてまた、すべての使徒たちを養成し、導き、支え、結果と報酬を与える職務を有し、それをなしとげるのです。

 託身の最初の瞬間において、マリアの胎内から、イエス・キリストをとおし、マリアとともに、マリアによって、最初のしかも完全な使徒を形成し、神に、栄光と賛美とがもたらされたのです。そしてまた、第二の使徒を形成し、その救済をもはじめたのです。

 マリアをもっと完全に知ることは、使徒、使徒たちの母、師、女王の性格を描写することによってできるのです。

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 使徒、説教者、宣教者、著述家、活動の人は、ピオ十世が「司祭の童貞」と呼んだマリアを情熱をもって愛さなければなりません。彼女の品位は、司祭たちと預言者たちの品位にはるかにまさっているのです。マリアは、私たちの使う意味とはことなった意味で、司祭なのです。むしろ、それをもっと愛すべきものなのです。マリアはホスチアと司祭を準備なさいました。そして今日、私たちは、血を流すことなく、くりかえされるいけにえを見ますが、彼女は、あの血が流された最初のいけにえのため、それをささげたのです。

 聖女ジェルトルデはある日、聖母から次のまねきを聞いたのです。「私の最愛の子イエスは、私の唯一の子とは呼ばれず、私の長子と呼ばれます。私が彼をはじめて懐妊したことは真ですけれども、彼に続いて、あなたたちみなを懐妊したのです。なぜなら、あなたたちがキリストの兄弟であり、私の子であるためだったのです。あなたたちを、私の母性的愛の胎内の中で養子としながら」。

 聖アウグスチヌスは次のように言っています。「この世で、すべて予見予定されている人は、童貞女の胎内にかくされている。そこで、保存され、やしなわれ、保護され、このよき母によって大人になるのである。死後、永遠の栄光に生み出されないうちは」。

 使徒職からマリアを除外することは、神の救済の計画のもっとも本質的部分の一つを知らないことになるでしょうし、マリアの嘆願の全能性を失わせ、また、ボスエ師の「神は、かつてマリアをとおしてイエスを与えたときと同じように、その方法と様式、ならびにその計画をかえることは決してない。マリアは頭を生んだ。マリアはその成員をも生むのである」という真理を知らずじまいになるのです。

 使徒、説教者、宣教者、聴罪司祭、活動の人は、もし彼らの活動が、マリアにおける熱心な信心と信頼に根ざさないならば、砂の上に建物を建てるような重大な危険におちいるのです。

 すべての使徒職は、霊魂の世界に、聖霊を与えることであります。さて、マリアが、天使に与えた承諾により、もっとも偉大な不思議、つまりキリストの託身と聖化をなしとげた聖霊が彼女にくだったのでした。その時以来、マリアは、聖霊のすべての有限の働きに対し、一種の司法権を獲得したのです。かくして、マリアによってでなければ、聖寵を受ける被造物はないのです。それゆえ、聖霊降臨に際しては、聖霊は、使徒たちの祈りを指導していたマリアによって呼びくだされたのです。

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 「おおマリア、神の母よ、あなたによらずしては、決してだれに救われた者はありませんでした。おお聖寵にみちみてる者よ、あなたによらずして神のたまものを受ける者はだれもありません」(聖ジェルマーノ)

 使徒があゆんだ道、つまり彼はマリアの敬虔な子であり、聖霊のたまものの働きを嘆願するにあたり、力ある者となったのです。「マリアは、彼らが願えば願うだけ、その子どもたちに与えるのである。子らよ、これが私の最高の信頼であり、私の希望のすべての動機なのである」(聖ベルナルド)

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 イエスのように、マリアから生れさえすれば、活動し活発になり、よき結果を生むのです。そしてまた、彼女によってやしなわれ、喜びとこころみと発展に際して、マリアがつきそっていれば、活動は活発になり、よき結果を生むのです。もし、活動が活発であり、確かな結果が生れれば、キリストがとおった道、マリアの道を歩んでいるのです。マリアは、イエス・キリストによって、神の王国に関するすべての原理と生命であるのです。

 悲しめる聖母の宣教会の創立者、アルラマ師には、他の創立者たちの歴史において、ほとんどないと言えるようなことが起こったのです。そのことは教会の創立者、イエス・キリストにおいて起こっただけでした。ある日、彼は、自分が選び、修道会に集めた最初の弟子たちに、会律を読んで聞かせるためにおもむきました。すると、だれもいません! みんな逃げてしまったのです。修道会をみまわってみました。逃げた人たちは、そこいらあたりをめちゃくちゃにこひっくりかえして去っていっていたのです。そこで彼は、そこを出、扉にかぎをかけ、聖母に長時間祈りをささげ、彼がはじめていたそのわざの意向を再び更新したのです。彼はなぐさめられ、たちあがりました。こうして彼は、マリアによって、マリアをとおして、マリアとともに、マリアにおいて、よりよくその仕事をはじめたのです。彼のわざは繁栄し、教会に偉大な成果をおさめました。

『信心のすすめ-自己の聖化と人々の救いのために』アルベリオーネ神父(サンパウロ・1974年)
※現代的に一部不適切と思われる表現がありますが、当時のオリジナリティーを尊重し発行時のまま掲載しております。

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