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信心のすすめ

祈りの使徒職──信心のすすめ(9)

 普通、聖パウロは、自分の信者の団体に次のようなことばを使って、自己を紹介しています。「イエス・キリストの使徒パウロ」と。イエス・キリストは十二使徒を選びましたが、のちに聖パウロはつけ加えました。「私は、私の名を諸王、異邦人にもって行くために彼を選んだ」と。このような紹介をえて、聖パウロは、宣教を強くのぞむ人の個人的性格をよく説明しています。全世界を征服するというのぞみは、彼のたえざる内的苦しみでありました。毎日の労働において、彼は何もひかえることはありませんでした。征服の意欲は、常に彼をかりたてていました。征服したものは彼の勝利品でした。そして、それを、ちょうどワシがそのひなを守るように、守っていたのです。

 精神のまったき平静さにおいて、しかももっと強い意志をもって、マリアは、人間の救いをのぞみ、あこがれていたのです。

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 のぞみの結果は祈りであります。それは第三の使徒職であり、熱誠の容易で普遍的なもっとも貴重な形であるのです。聖ヤコボはそれを次のように命じています。「救われるためにお互いに祈りなさい。たえざる祈りは、神のみ前で非常に価値があるものです。(ヤコボ 5,16)。

 聖パウロは、チモテオにあてた先の手紙(2の1~4)で、次のように言うのです。「まず第一に、私はあなたたちに、祈りをなし、嘆願し、願い、すべての人にかわって感謝しなさい……。それは私たちの主、神の気に召すためであり、すべての人が救われ、真理の認識に到達するためです」と。

 聖パウロのこの句で、祈りの使徒職を命じているのです。それは神の気に召すことだといっています。そして、それは有益であり、人々への福音宣布と永遠の救いのために効果ある手段であることを言明しています。実際、この使徒職は、罪人と不信者、異端者とヘブライ人、回教徒たちの上に神のあわれみを呼びくだすものであり、すべての人に、光りと信仰の増大、神の奉仕における熱誠と善における堅忍を神に願うものなのです。

 すべての人間の労苦と最良のイニシャティブも、神の恩寵なくしては、不耕に終わるにちがいありません。それはまた、空間を占め、重さを有する肉体ではあっても、たましいと生命の欠けたものにすぎなくなるのです。すべての使徒職のたましいは、神のあたえる果実、堅実な果実、生命なのです。この神の生命のない私たちのわざは、ブドウの木からはなれたその枝と同じようなものです。それゆえ、死すべく決定されているのです。「なぜなら、私なくしては、何ごともなすことができないから」(ヨハネ 15,5)です。自然の力でそれをこころみても、非常に弱い人間の力では、超自然のわざをなしとげることができましょうか。それをこころみることは、おろかのいたりであり、使徒職を行なっている者においては、説明しがたいもの、考えもつかないことです。

 アルスの聖司祭は次のようにいっています。「祈りの生活は、この地上での偉大な降伏である。おお、何と美しい生活! 神との美しい一致! 内的生活は、霊魂が愛のうちにひたれるための愛の水浴なのである……。永遠にわたる幸福を理解するには、それほど長くはないであろう……。一母親が接吻と愛撫につつみながら、その幼児の頭を両手の中にかかえるように、神は、内的霊魂をささえるのである」と。

 アシジの聖フランシスコは「祈りは恩寵の源泉である。説教は天から受けた恵みを分配する手段である。司祭たちはかれらの王の伝令者であり、神の口と聖体から集め、受け取ったことを民にもたらすべく選ばれた者である」と言います。

 「もし、主が家をたてるのでなければ、その労働はむなしい」(詩編 126)。

 しかし《神とともにあれば、すべてができる》のです。

a マリアは祈りによって使徒なのです。なぜなら、彼女はすべての人にまさって祈りましたし、すべての人より、よりよく祈ったからであります。マリアの聖なる生活は、もっと完全で、祈りは効果的なものでした。

 一つの掟があります、《常に祈らなければならない》と。他方一つの禁止があります。《決して中断してはならない》と。命令と禁止。マリアのように、それを完全に遵守した人はありませんでした。

 マリアは、その無原罪のおんやどりの瞬間から被昇天にいたるまで、どれほど祈ったことでしょう……。彼女は、神のみことばを、ご自分の胎内の実とするために、おん父のふところからひきよせ、託身させたのでした。

 マリアの生涯は、たとざる祈りであったのです。その聖性によって、彼女は神の気に召されました。おん父は、ご自分の気に召すひとり子をやどすに適した住家を、彼女のうちに見い出しました。

 神のみことばは、マリア以外には、ご自分をとどめるに準備されたふさわしい聖櫃をまだ見い出しえなかったのです……。しかしついに、それをマリアのみ心に見い出したのです。すべてが神のおん子のご計画によって、神ご自身によってたてられたということです。それは、奇跡的にマリアを原罪からまぬがれしめ、特別な聖寵によってかざられた神の介入を示しています。「彼女の童貞性のために、気に召され、その謙遜によって母となった」のです。

 マリアは、その美しさによって、受肉した神のおん子をひきよせたのです「わたしのハト、わたしの完全なハトはただひとつだけ」(雅歌6,9)なのです。そのため、聖寵は、マリアの中に、ゆたかにそそがれたのです。雅歌にしるされているように、マリアは、徳のかおりをもって、その愛人を自分の心の庭にいこいに来るようにとまねくのです。

b 念祷と声祷によって、使徒なのです。マリアは、祈りによって救世主の到来の時期を早めたということを、教父たちと博士たちは一致して主張しています。神のご計画によると、マリアは、ご自分の中に世界の三つの時期、つまり、キリストが出現する以前の時期、すなわち旧約時代と彼とともに生き、そしてイエス・キリストの神秘的からだ、つきり教会につぎ木される時期を経験しなければならなかったのです。それゆえ、彼女は、旧約聖書のうちでもっとも選ばれたたましいをもって、メシヤを礼拝するためにやって来た人びと、すなわち、羊飼いたちと、東方の賢者たちと、聖ヨセフとともに礼拝しましたが、イエスの昇天後には、彼女はもっとも聖であり、教会の中で崇敬されるおかたなのです。

 準備の期間では、マリアの義務がもっと目だつのです。救済者の待望は、ユデア民族のたえざる願いでありましたし、時代がたつにつれ、ますます、はげしくなっていきました。ヘブライ人たちの間には、もっとも特典を受けた被造物マリアほど照らされた、聖なる者はだれもいなかったのです。神殿できいた聖書の解釈は、メシヤの偉大さ、その至高な美しさ、人間のうちにおける彼の使命について、偉大でしかも常に、新しい視野を、マリアに与えていたのです。彼女は、人類がおちいっている悪徳と偶像礼拝のあやまちの深さを理解したのでした。彼女は、預言者たちとともに、「来てください。おくれないでください。来てその民を救ってください」と、もっとも熱烈な調子で、救い主の到来を祈っていたのです。これらの声は、神のおん子の託身を早めるという神のご計画に、力をかしたのです。祈りは、天父のみ心の上に、その力を及ぼすのです。特に、祈りが謙遜な心と潔白な愛の心によってなされるとき、天は、彼女のこれらの願いにこたえるのです。まさにある日、マリアのたましいが、この思いにふけり、その到来を呼び続けていた時、「聖寵にみちたおかた、あなたにあいさつを申しあげます……。あなたから生まれる者は、聖と呼ばれるでしょう」というあいさつを、大天使ガブリエルから受けたのです。マリアの祈りの重味は、神のあわれみの予定を早めさせるにいたったのです。

 祈りは、説教家と著述家、教師とカテキスタ、宣教者と講演者……に、力と恒常性と効果をかちえさせる使徒職なのです。そしてまた、ことばとわざと著述、もしくは、印刷を実施するすべての人に、力と恒常性と効果をかちえさせるものなのです。それゆえ聖パウロは、テサロニケ人たちへの後の手紙(3,1)の中で、次のように書いているのです。「わたしたちのために祈りなさい。それが福音が広くゆきわたり、尊敬され、受け入れられるためであります……」と。

 一説教家は、非常に謙遜な霊魂と約束をしているのです。「説教中、あなたは礼拝を行ってください。なぜなら、説教が改心の効果をえられるためです」と。

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 祈りの使徒職は、単純で、容易であるとともに、義務でもあり、すべての人にとってふさわしいものであります。

 多くの聴罪司祭、宣教師、著述家司祭たちは、彼らの善行による祈りと嘆願とをささげてくれる霊魂たちを有するものです。彼らは働き戦うのです。その霊魂たちは、孤独と修道院の個室において、山上におけるモーセのように、天に向かってさしのべた両うでと心を持っているのです。

 教会では、この使徒職は、広範囲にわたる組織団体として組織されました。そして、全カトリック教国にひろがっているのです。それほど有益であればあるほど、そこに嘆願する霊魂たちがもっと結合されることになるのです。「地上で二人またはそれ以上の人が集まって、何かを願うならば、天におられる私の父は聞きいれるだろう。神の名において二人または三人集まるとき、私はかれらの間にいる」(マタイ 28,19 )と主は言われました。この組織は、イエスのみ心の望みと興味を促すことにあるのです。奉献の実践は次のものです。《イエスのみ心よ。私はイエスの汚れなきみ心にあわせて、私の祈りと活動と苦しみを、祭壇の上でたえずあなたがささげるのと同じ意向をもって、あなたにおささげいたします。そして、それを特に、今日、祈りの使徒会の会員にすすめられている意向にあわせてささげます》。

 人類の半数以上は、まだ救いが何であるかも知らないのです。よろこばしいおとずれは、多くの霊魂たちの耳にひびいてはいないのです。かれらは、イエス・キリストが来る以前の状態にあるのです。

 神の王国が広がるように、マリアとともに祈りなさい。教会がその征服を広げ、すべての人が一つのむれ、一人の牧者のもとに集まるようにと祈りなさい。

 主よ、来てください。カトリック宣教を祝してください!

 ナザレにおける幼女マリアとともに、また、神殿にある少女マリアとともに、さらに、神の母性の偉大な神秘へと準備していた聖霊の働きをその霊魂の中でより明白に感じていた処女マリアとともに祈りましょう。

『信心のすすめ-自己の聖化と人々の救いのために』アルベリオーネ神父(サンパウロ・1974年)
※現代的に一部不適切と思われる表現がありますが、当時のオリジナリティーを尊重し発行時のまま掲載しております。

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