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マスコミの先駆者アルベリオーネ神父

55. 極東へパウロ会員を派遣 ――マスコミの先駆者アルベリオーネ神父

 一九二五年(大正一四年)の終わりに、アルバ修道院にお客が来たというので、その年に司祭になったばかりのマルチェリーノ神父は応接間に呼ばれた。サレジオ会のチマッチ神父であった。チマッチ神父はマルチェリーノ神父にこう言った。「私は、すぐ日本へ出発します。あそこで私たちは会を設立するつもりです。私たちがしようとしている仕事の一つは、印刷学校を建てて、カトリック出版物を出すことです。私はあなた方の出している全出版物の見本を一冊ずつ買いに来ました。私たちサレジオ会員にとって出版使徒職は、いろいろな使徒職の中の一つです。あなた方の出版物を参考にして私たちも出版物を出すつもりです。しかし出版使徒職を専門とするあなた方が日本に来て、この仕事をすべきですよ。」

 マルチェリーノ神父は答えた。「その通りです。私は喜んで行ってみたい。しかし、聖パウロ会はまだ若過ぎるので、まず基礎がためをしなければなりません。私もこの会に入る前から宣教師になる夢をいだいていました。」

 それから数年後のある朝、ミサの後聖堂から出ると、アルベリオーネ神父は、マルチェリーノ神父を呼び、事務室へ連れて行った。地球儀を私に見せて、「最近、ブラジルとアメリカ合衆国に修道院を開いた。こんどは極東に修道院を建てたい」と言いながら、極東地区をマルチェリーノ神父に見せた。マルチェリーノ神父は答えた。「いい勇気ですね。神様が祝福されますように。しかし、なぜ私に、こんなことを言うのですか?」「ちょっと考えておいて下さい。忙しさにまぎれて、すっかり忘れては、だめだからね。」

 それから数年すぎて一九三四年(昭和九年)八月十七日ローマ支部修道院の会計係をつとめていたマルチェリーノ神父はアルバ修道院のアルベリオーネ神父から電文を受け取った。「次の船で日本へ行きなさい。あなたの連れはベルテロ神父です。」

 翌朝、マルチェリーノ神父は、ミサ後、船会社を回り、日本行きの船を見つけ、十一月に出発する船のキップの予約をとった。その間にパスポートの申請、後任者への事務引継ぎをし、肉親、親族、知人、友人などに別れの挨拶回りをし、ついでに寄付を集めた。

 一九三四年十一月九日イタリア南東のブリンディジ港を出港した船上には、東洋に向かう四名のパウロ会員の姿があった。そのうちの二人は支那へ、他の二人は日本へ宣教する任務をおびていた。三十二歳のパウロ・マルチェリーノ神父と二六歳のロレンツォ・ベルデロ神父であった。

 およそ一か月後の十二月九日、二人は未知の国の人びとに対する期待と不安に胸を躍らせながら、神戸港に到着した。

 入国手続きを終え、神戸のパリ外国宣教会で一休みすると、翌九日二人は東京へと出発した。しかし東京に着いてからどうするか? それを思うと心配でならなかった。日本には知人とてなかった二人は、サレジオ会のピアチェンツァ神父を頼って三河島教会へ行った。

 しかし、東京教区内に宣教師が留まるには東京教区長シャンボン大司教の許可がいる。二人が挨拶に行くと、「あなた方は、いったい誰か?」「だれが、あなた方を派遣したのか?」「だれがあなた方を招いたのか?」「私は、あなた方を知らない。すぐにイタリアへ帰りなさい。」

 これが大司教の答えであった。二人は、アルベリオーネ神父の手紙をたずさえてきたとはいえ、東京大司教はかれにの来日については、まだ何も関知したおられなかったのである。

 二人の神父は創立者アルベリオーネ神父の命令と教区長の権限との間に板ばさみとなった。一教区で宣教するためには、ふむべき順序があるという大司教の考えも、ごもっともである。しかし、二人がこの日本に骨を埋める覚悟で来たのは、創立者の命令に従ってのことである。この矛盾みたいな一件を解決するためにはどうするのか。二人は「時を待つ」以外に仕方がなかった。

 しばらく二人は大森区(現在の太田区)に家を借りて住み、もっぱら日本語の習得に努めた。あたりには田畑や海苔乾燥場が散在し、風向きによって、時おり東京湾の潮の香がにおってきていた。

 大森教会の主任司祭コルニエ神父のはからいで、まかないのおばさんと同区内にイタリア語のわかる日本語の教師(五十嵐氏)を見つけることができた。

 さし迫った問題は財政であった。創立者の主義として、海外に派遣される会員は、ほとんど金は与えられていない。欲しければ自分たちで寄付をつのるほかはない。その時の持参金は二人で五〇〇リーラ、二十日ほどで消えてしまった。本国からの送金はなし、明日からどうして生活しようか、と思案にくれていると、ちょうどよいアルバイトが見つかった。三人のイタリア人の子弟にラテン語とイタリア語を教え、この謝礼が四か月の生計を立てることができた。もちろん、その間、二人は八方手ほつくして寄付、援助を求めた。ベルテロ神父は特にこの方面を担当し、次第に在日外人のうちに協力者を見いだしていった。

 来日してまもなく、マルチェリーノ神父は、胃かいようのため手術を受けねばならなくなった。一九三五年(昭和一〇年)の初冬、シャンボン大司教は神父たちの苦るしい立場に同情され、大森教会のコルニエ神父のもとで宣教師の見習いを始める許可を与え、翌年四月に正式に東京教区内に居住することが許され、王子、赤羽方面(現在の北区)を小教区として司牧するよう命ぜられた。二人は奔走して王子教会創設の資金を集め、下十条駅に近い高台に家を見つけ、六月十九日の聖心の祝日には「王子教会」の看板を揚げることができた。

 日本人の生活を見聞するにつれて、二人は自分たちの専門の使徒職である出版布教が、「日本においてこそ極めて必要かつ有効である」との確信をますます深めた。アルベリオーネ神父が二人を極東の日本に派遣したのは、教会をもつためでなく、出版布教を推進させるためである。

 一九三六年(昭和一一年)八月、二人は自分たち最初のイタリア語のリフレット「日本における聖パウロ会」を作り、母国をはじめ各方面に送った。その中に次のように書いている。「たえず、すみやかに、かつ広範囲に、福音の光りを輝かすためには、出版よりもすぐれた方法はないと考えています。なぜなら、世界のどの国にも、日本人ほど、その人口の割りに物を多く読む国民はないからです。」

 義務教育がよく普及していて文盲がほとんどいないことや、書店から駅頭の売店にいたるまで、出版物を扱う店が多く、またその出版物の種類の多いこと、さらに電車の中で新聞、雑誌を読む人びと、参考書を開いている学生たちの光景は神父たちを驚かしたものである。

 越えて一九三八年(昭和一三年)には念願の印刷所が王子教会の敷地内に設けられた。神父たちはこの印刷所を「誠光社」と名づけ、直ちに小教区内の人びとを対象とした、布教用リフレット「王子教会の声」を発行した。また児童向きの単行本として「面白くてためになる話」、「名もなき島」、「ハンス物語」などが出版された。

 さてアルベリオーネ神父が、その後イタリアでマス・コミ使徒職を、どのように推進させたか、その活動を述べてみよう。

・池田敏雄『マスコミの先駆者アルベリオーネ神父』1978年
現代的に一部不適切と思われる表現がありますが、当時のオリジナリティーを尊重し発行時のまま掲載しております。

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