書籍情報、店舗案内、神父や修道士のコラムなど。

これってどんな種?

イエス様に従うという種 年間第22主日(マタイ16・21〜27)

 「従う」という言葉がありますが、その意味として「①だれ(何)かのあとについて行く。」「②相手の言った事に正当な理由(権威)を認め、逆らわないように行動する。」「③他の事柄が変化するのと並行して、その事が行われることを表す。」とあります(『新明解国語辞典』)。私たちは、洗礼の恵みを頂いてイエス様の弟子となり、イエス様に【従う者】となりました。上の意味を用いながらみますと、「①イエス様のあとについて行く」、「②イエス様の言った事に……」、「③他の宣教(事柄)が変化する……」となるのではないでしょうか。私たちは、日々の生活の中で「私は、イエス様に【従う者】として歩んで行っているのか」と振り返ってみる時間を持ってみるのもいいかもしれませんね。

 きょうのみことばはイエス様が弟子たちに初めて受難の告知をされ、改めてご自分に従う者となることについて話される場面です。みことばは「この時から、イエスは、ご自分がエルサレムに行き、長老、祭司長や、律法学者たちから多くの苦しみを受けて、殺され、そして3日目に復活することを、弟子たちに打ち明けられた。」と始まっています。

 この箇所の「この時」というのは、ペトロが「あなたは生ける神の子、メシアです」(マタイ16・16)と答えた時からという意味です。イエス様は、ペトロの答えを聞かれご自分がおん父から遣わされた理由を弟子たちに話されたのです。ですから、「この時」というのは、イエス様が弟子たちに「初めて受難告知をされた」大切な【時】なのです。

 イエス様は、ご自分の最期がどのようになるのかを弟子たちに告げられます。それは、エルサレムの代表であり、権威者たちから「苦しめられ、殺され、そして復活すること」でした。弟子たちは、このイエス様の話を聞いて、かなりの衝撃を受け、「まさかメシアであるイエス様に限ってそのような死に方をするなんてあるはずがない」と思ったことでしょう。ただ、彼らは大切なことを聞き漏らしていました。それは、「3日目に復活する」ということでした。

 みことばの最後には「打ち明け始められた」とあります。イエス様は、弟子たちの表情をご覧になりながら「ちょっと、伝えるのが早かったかな。彼らは理解できただろうか」と思われたかもしれません。イエス様が弟子たちに打ち明けられたように、私たちにも打ち明けられておられます。私たちは、このイエス様の言葉をどのように受け止めているのでしょうか。

 ペトロは、イエス様を脇へお連れして、「主よ、とんでもないことです。決してそのようなことはありません。」といさめ始めます。ペトロは、イエス様の話を聞いて【いさめ】ますが、この「いさめ」という意味は、「正しい道の在り方を示して、悪い行いをやめさせたり、欠点を改めさせたりする」(『新明解国語辞典』)とあります。ペトロは、イエス様の話が「間違いであることを」指摘します。これはペトロを含めて弟子たちも同じような気持ちだったことでしょう。ペトロは、イエス様のことを「あなたはいける神の子、メシアです」と言ったように、「メシアである、イエス様がそのような無残な、屈辱的な最期を遂げるはずはない。もっと、周りから惜しまれて亡くなるはずだ」と思ったようです。

 イエス様は、ペトロに対して「サタン、引き下がれ。お前は、わたしをつまずかせようとしている。お前は神のことではなく、人間のことを考えている」と言われます。少し前では、「……あなたにこのことを示したのは人間ではなく、天におられるわたしの父である」(マタイ16・17)とイエス様がペトロを誉められたのですが、今度は、「サタン、引き下がれ……」と言われたのです。イエス様は、おん父のみ旨に従われ、ご自分が十字架上での受難と死とそして、復活を通して人々を贖うために【メシア】として遣わされたにも関わらず、その使命をペトロは、否定した事について、「サタン、引き下がれ」と言われたのです。もし、私たちがおん父のみ旨に従わず、自分の気持ち人間的なことを大切にするのでしたら、同じようにイエス様から言われるかもしれませんね。

 イエス様は、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を担って、わたしに従いなさい。自分の命を救おうと望む者は、それを失い、わたしのために自分の命を失うものは、それを得る。」と言われます。イエス様は、「わたしの後に従い【たい】者」とまず言われ、私たち一人ひとりが自由な意志を持って【従う者】となることを確認され、「従う」のでしたら、「自分を捨て、自分の十字架を担って、わたしに従いなさい。」と言われます。

 私たちは、イエス様の教え、行いに従って歩むとき、周りからの反対や蔑みだけではなく、「私の心」と向き合うことも多々あることでしょう。私たちは、時々自分の楽しみや好みを優先するあまり、イエス様の声とは反対のことを行なってしまいます。イエス様が言われる「自分を捨て、自分の十字架を担って、わたしに従う」というのは、この「私の心」のエゴを優先するか否かということではないでしょうか。私たちは、まず私の十字架を見つめ、たとえ痛み、苦しみがあったとしてもイエス様に【従う】ことを優先することができたらいいですね。

  • 記事を書いたライター
  • ライターの新着記事
井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. イエス様に従うという種 年間第22主日(マタイ16・21〜27)

  2. 私とイエス様という種 年間第21主日(マタイ16・13〜20)

  3. 主よ、助けてくださいという種 年間第19主日(マタイ14・22〜33)

RANKING
DAILY
WEEKLY
MONTHLY
  1. 1
  2. 2
  3. 3
  1. 1
  2. 2
  3. 3
  1. 1
  2. 2
  3. 3
RECOMMEND

RELATED

PAGE TOP