きょうのミサの「集会祈願」の中で司祭は、「すべてを治められる神よ、あなたに祈り求める民を顧み、尽きることのないいつくしみを注いでください。あなたの似姿に造られた人々が救いの恵みを受け、新しいいのちのうちに歩むことができますように。」と唱えます。この「尽きることのないいつくしみを注いでください」という祈りは、私たちの霊的な飢え、渇きに対していつくしみ注いでくださいという祈りですし、私たちの弱さ、貧しさを受け入れながらおん父に【尽きることのないいつくしみ】を願っている祈りともいえます。
さらに、その次にある「救いの恵みを受け、新しいいのちのうちに歩むことができますように」とありますのは、おん父からの「尽きることのないいつくしみ」を頂いた私たちが、【新しいいのちのうちに】おん父のもとに向かって歩むとことができますようにという祈りということなのだと思います。私たちは、日々の生活の中でこの祈りを思い起こし感謝のうちに歩むことができるといいですね。
きょうのみことばは、イエス様がパンを増やして群衆の空腹を満たされる奇跡の場面です。みことばは、「さて、イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、自分たちだけで人里離れた所に退かれた」という言葉で始まっています。この「イエスはこれを聞くと」というのは、すぐ前の節に「ヨハネの弟子たちが来て、遺体を引き取り、それを葬った。そしてイエスのもとに行って報告した」(マタイ14・12)という洗礼者ヨハネがヘロデ王から殺されたという報告を聞いたということです。
イエス様は、自分の身内である洗礼者ヨハネの死を知り、ご自分の「受難と死」を思われたのでしょう。そのことを思いながら、イエス様は、おん父との祈りの時間を持ちたかったのではないでしょうか。福音書の中には、イエス様がお1人で祈りをされる場面があります。この時も、イエス様は、ご自分に課さられた使命についておん父と祈りを通して話したかったのではないでしょうか。
みことばはさらに「これを聞いた群衆は、それぞれの町から歩いてイエスの後を追った。」と続きます。この「これを聞いた群衆」というのは、洗礼者ヨハネの死を聞いたということなのかもしれません。今まで、洗礼者ヨハネの教えを聞いたり、癒されたりしていた群衆は、洗礼者ヨハネと同じように教えられていたイエス様のもとに来たのでしょう。もちろん、イエス様がなさっていた教えや奇跡を受けた人々もいたことでしょう。
イエス様は、舟から降りられると、大勢の群衆がご自分を待っているのをご覧になられ、憐れに思われ、その中の病人たちを癒されます。この【憐れに思う】というのは「はらわたが痛むほど心が動かされる」という意味のようです。ですから、イエス様は、群衆の様子をご覧になられ、居ても立っても居られなくなり、病人を癒やされ、人々の悩みに応えられたのでしょう。
弟子たちは、イエス様がおん父との祈りをするために人里離れた所に来たのに、夕方近くまで人々を癒されているのを見て心配になります。それで、弟子たちは「ここは人里離れた所です。それに、だいぶ時間もたちました……めいめい食べ物を買うことができます」とイエス様に伝えます。弟子たちは、イエス様や人々のことを心配したかもしれませんが、それ以上に「もうそろそろその辺で終わりませんか」という人間的な心配、気持ち優先していたのかもしれません。ここに、イエス様と弟子たちの気持ちの温度差の違いがあるように思われます。
イエス様は、「その必要はない。あなた方が、彼らに食べさせなさい」と言われます。弟子たちは、このイエス様の言葉を聞いて、「ここには、5つのパンと2匹の魚しか持ち合わせていません」と答えます。彼らは、この僅かな食べ物だけで大勢の群衆のお腹かを満たすのは不可能だと思ったことでしょう。そして、イエス様の「あなた方が、彼らに食べさせなさい」という言葉に対して自分たちの無力さを痛切に感じたのではないでしょうか。
イエス様は、「それをわたしの所に持ってきなさい」と言われ、5つのパンと2匹の魚を取られ、天を仰いで賛美をささげ、パンを裂いて、弟子たちにお渡しになられます。イエス様は、弟子たちが持っている「5つのパンと2匹の魚」を【ご自分の所】に受け取られます。これは、私たちの貧しく、僅かな捧げものをイエス様にお捧げすることで、多くの恵みを得ることができるのです。イザヤ書では、「わたしに従い、善い物を食べよ。」(イザヤ55・2)とありますし、パウロは「誰がわたしたちをキリストの愛から引き離すことができるでしょう。災いか、苦しみか、迫害か、飢えか……」と言っています。
私たちは、群衆の一人のように貧しく、飢えていて、おん父に従い、アガペの愛を頂かないと生きてはいけません。また、同時に弟子たちのように、私たちのすべてをイエス様に委ね、お捧げすることでより多くのイエス様のアガペの愛から溢れる恵みを頂くことができ、イエス様に従うことですべての困難からも守られるのです。私たちは、このことに感謝と信頼とそして、希望のうちに日々の生活を歩むことができるといいですね。
