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おうち黙想

第1回 黙想講話:プラダ/ナイロン ――「未完」の神学 〜シランス・オートクチュール:ハイブランドで学ぶイエス・キリストの着こなしかた〜

1. 違和感という名の入り口

 私たちは、完成されたものを好みます。特に「ラグジュアリー」と呼ばれる世界において、それは手に吸い付くような最高級のレザーであったり、職人の指紋さえ残さない完璧な研磨であったりします。しかし、プラダが提示した「ナイロン」という素材は、その対極にありました。
 ミウッチャ・プラダが選んだのは「ポコノ」と呼ばれる、イタリア軍のテントやパラシュートにも採用されていた工業用の高密度ナイロンでした。それは徹底して「機能」と「合理」の象徴であり、本来は情緒が入り込む隙間などないはずの素材です。しかし、彼女がそれをランウェイに持ち込んだとき、そこに生まれたのは単なる「便利さ」ではなく、ある種の「不親切な違和感」でした。
 そのバッグを手にしたとき、私たちは戸惑います。高価であるにもかかわらず、手触りはどこか冷たく、無機質です。使い込めば馴染むレザーとは違い、ナイロンはいつまでも独自の質感を保ち続け、こちらの身体性に安易に歩み寄ってきません。この「納得しきれなさ」こそが、実は私たちが神と向き合う際に最初に立つべき地平なのです。

2. 荒れ野という「閉じない意味」

 聖書を紐解くと、神はしばしば私たちを「意味の分からない状態」に放置されます。
 イスラエルの民がエジプトを脱出したとき、約束の地までは直線距離で歩けば数週間もかからないはずでした。しかし、神は彼らを40年もの間、荒れ野に留め置かれました。そこには、私たちが求めるような「合理的な説明」が欠けています。空からはマナが降り、夜は火の柱が彼らを導きましたが、肝心の「いつ終わるのか」「なぜここなのか」という問いに対して、神は沈黙を守り続けられました。
 荒れ野での40年は、プラダのナイロンが持つ「無機質な時間」に似ています。そこには、私たちがすぐに消費して納得できるような「正解」が落ちていないのです。
 私たちは、意味を欲しがる生き物です。苦難に遭えば「これは何の試練か」と問い、成功すれば「これは何の報いか」と、即座に因果関係の箱に閉じ込めようとします。しかし、神が用意される時間は、しばしば私たちの理解の枠組みを拒絶します。ヨブが受けた理不尽な苦難に対して、神が最後に語られたのは、宇宙の創造の神秘であって、ヨブの「なぜ私なのですか」という問いへの直接的な回答ではありませんでした。意味が即座に閉じないこと。それは、私たちが神を「自分の支配下」に置かないための、神からの配慮でもあるのです。

3. 「分からない」という誠実さ

 現代社会は、私たちに「即座の判断」を要求します。SNSのタイムラインを流れる情報に対し、数秒で「いいね」か「批判」かを決め、ラベルを貼り、分かった気になって次へ進む。このスピード感の中では、意味は消費される対象にすぎません。
 しかし、プラダのナイロンが、その合理性の裏側に「身体的な突き放し」を隠し持っているように、信仰における誠実さとは「判断を遅らせる勇気」の中にあります。
 イエスが語った数々のたとえ話を思い出してください。弟子たちはいつも「どういう意味ですか」と説明を求めましたが、イエスは多くの場合、たとえの持つ「不可解さ」をそのままに残されました。種まきの話、放蕩息子の話、ぶどう園の労働者の話……。それらは、聞く者の心に「刺さったまま」になり、すぐには消化されません。
 「分からない」という状態に留まることは、一見すると無責任に見えるかもしれません。しかし、早く意味を回収しようと焦る心は、しばしば神の声を、自分にとって都合の良い「自分の声」にすり替えてしまいます。プラダのナイロンが、その冷徹な手触りによって私たちを現実の質感に引き戻すように、聖書の沈黙は、私たちを「自分の作り出した神」という偶像から引き離すのです。

4. 身体に残る「聖なる違和感」

 プラダのナイロンバッグを肩にかけるとき、その軽さは自由を与えてくれる一方で、どこか「自分の一部になりきらない」感覚を残します。この距離感こそが、神学的です。
 私たちは、神を自分のポケットに入れて持ち歩ける便利な道具にしてはなりません。神は私たちの日常の中に、最もありふれた素材(ナイロン)のように遍在されますが、同時に、決して私たちの思い通りには完結しない「他者」として存在されます。
 「まだ分からないままでいなさい」
 このメッセージは、救いへの招待状です。もし、あなたの人生がいま、理不尽な状況にあり、どんなに祈っても意味が見いだせず、ただ無機質な時間が過ぎているように感じられるなら、あなたはまさに「神学的ナイロン」の中にいます。
 そこでは、無理に感謝する必要も、強引に教訓を引き出す必要もありません。ただ、その「納得のいかない状態」に、神と共に留まること。意味が閉じない時間を、耐えるのではなく、慈しむこと。プラダが工業用素材を究極のスタイルへと昇華させたように、神はあなたの「無意味に見える時間」を、そのまま救いのカタチへと変えていかれます。

5. 黙想の終わりに

 プラダの黒いナイロンは、光を反射せず、吸い込みもしません。ただ、そこに厳然として存在しています。
 私たちの信仰もまた、過剰な感情の起伏や、華やかな奇跡を必要としません。むしろ、日々の生活の中にある「解けない問い」を、そのまま抱えて歩き続けること。その姿勢そのものが、すでに一つの完成された祈りなのです。
 意味を求める手を、一度休めてみましょう。「分からない」という暗闇を、神がおられる場所として受け入れてみましょう。そのとき、あなたの手の中にある「不親切な現実」は、静かに、しかし力強く、神との新しい絆を結び直す素材へと変わっていくはずです。

【黙想のための問い】
あなたの人生の中で、今もっとも「納得がいかない」「意味が分からない」と感じている部分はどこでしょうか。そこから無理に意味を引き出そうとせず、その質感のまま神の前に置いてみてください。

※補足:プラダのナイロンについて 本文で触れた素材は、ミウッチャ・プラダが1978年に導入した「ポコノ(Pocono)」と呼ばれる素材です。もともとはイタリア軍の軍需品工場で使われていた工業用ナイロンであり、シルクのような光沢と、当時のラグジュアリーの常識を覆す耐久性を併せ持っていました。

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カトリック司祭。愛媛県松山市出身の末っ子。子供の頃から“甘え上手”を武器に、電車や飛行機の座席は常に窓際をキープ。焼肉では自分で肉を焼いたことがなく、釣りに行けばお兄ちゃんが餌をつけてくれるのが当たり前。そんな末っ子魂を持ちながら、神の道を歩む毎日。趣味はメダカの世話。祈りと奉仕を大切にしつつ、神の愛を受け取り、メダカたちにも愛を注ぐ日々を楽しんでいる。

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