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おうち黙想

第2回「燃え尽きた場所に、神は近い」――神から最も遠いと感じる地点が、臨在の中心になる―― 四旬節黙想講話:「星の砂」

今回のポイント
 第二回で示されたのは、「神がいない」と感じる体験そのものの読み替えです。祈れない、何も響かない、信仰が壊れたように感じる場所は、失敗や後退ではありません。聖書は一貫して、神が近づかれるのは力が尽きた場所、砕かれた心のそばだと語ります。荒れ野、ヨブの沈黙、そして十字架上の叫びにおいて、神は姿を消したのではなく、人間の最深部にまで降りてこられました。神から最も遠いと感じる地点が、実は臨在の中心になるという逆説が、ここで明らかになります。
 神の臨在は、必ずしも感覚として経験されるものではありません。慰めや確信が消え、空白だけが残るとき、人はそれを不在と誤解しますが、聖書は「見えないもの」が働いている現実を示します。エマオ途上の弟子たちのように、気づかれないまま神が共に歩かれることもある。四旬節は、その場所から無理に抜け出さず、答えを急がず、とどまる季節です。燃え尽きた場所は信仰の終わりではなく、信仰が最も深く集約される場所なのです。

「神はいない」と感じる場所から始まる

 信仰生活の中で、多くの人が一度はこう感じます。
 「神が遠くなった」「祈っても届かない」「もう神はいないのではないか」。
 祈りの言葉が出てこず、聖書を開いても心が動かない。典礼に参加していても、どこか外側に立っているような感覚だけが残る。そのとき人は、自分の信仰が壊れてしまったのではないかと不安になります。
 しかし、聖書はその感覚を「信仰の失敗」とは呼びません。むしろ、その地点こそが、神が人間に最も深く関わる場所であることを、繰り返し語ります。神から最も遠いと感じる場所が、実は神の臨在の中心になる。これは慰めの言葉ではなく、聖書が示す厳然たる現実です。

神は「力のある場所」を選ばれない

 私たちは無意識のうちに、神は調子の良いときに近くおられると考えます。祈りが順調なとき、信仰がはっきりしているとき、使命感に燃えているとき。ところが、聖書の神は、そのような場所をほとんど選ばれません。
 神が選ばれるのは、力が尽きた場所です。
 「主は、砕かれた心の人々の近くにおられ、霊の打ちひしがれた者を救われる」(詩編34・19)。
 神は、元気な信仰者のすぐ隣にいるのではありません。砕かれ、打ちひしがれ、自分を支えられなくなった人のすぐそばにおられます。

荒れ野は、神が最も近づく場所

 イスラエルの民は、神に選ばれたあと、すぐに約束の地へ導かれたわけではありません。彼らは荒れ野へと連れ出されます。食べ物も水もなく、神が共におられる証拠すら見えない場所です。民は不満を漏らし、「エジプトの方がましだった」とさえ言いました。
 しかし、申命記はこの荒れ野を、こう読み直します。
 「主はあなたを荒れ野に導き、あなたを苦しめ、試みられた。それは、あなたが人はパンだけで生きるのではなく、主の口から出るすべての言葉によって生きることを知るためであった」(申命記8・2-3)。
 荒れ野は、神がいない場所ではありません。神が最も密に関わっておられた場所です。ただし、その関わりは、人間の期待する形では現れませんでした。

ヨブの沈黙は、神の不在ではない

 ヨブは、正しい人でした。にもかかわらず、すべてを失います。財産、家族、健康、そして「神は正義である」という確信さえも。友人たちは説明を与えようとしますが、ヨブはそれを拒みます。彼はついにこう叫びます。
 「見よ、わたしはあなたを求めて叫ぶが、答えはない」(ヨブ30・24)。
 しかし、神はヨブを見捨ててはいませんでした。神は沈黙しておられただけです。そしてその沈黙の中で、ヨブの信仰は剥ぎ取られていきます。正しさも、理屈も、説明も失われたとき、ヨブは神と直接向き合う地点へと連れて行かれます。
 神が語り始めるのは、すべてが尽きたあとです。沈黙は不在ではありません。沈黙は、神が近づくときのしるしです。

十字架上の沈黙は、最深部の臨在

 イエス自身が、「神が遠い」と感じる場所を通られました。
 「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(詩編22・2)。
 この叫びは、信仰の崩壊ではありません。イエスが、神の沈黙を本当に引き受けられた瞬間です。十字架は、神がいない場所の象徴ではなく、神が人間の最深部にまで降りてこられた場所です。
 人が「ここには神はいない」と思う地点に、神はすでにおられます。しかも、逃げずに、共に留まるかたちで。

神の臨在は、感覚では測れない

 神が近くにおられるからといって、それを感じられるとは限りません。むしろ、神が近づくほど、私たちは何も感じなくなることがあります。慰めも確信もなく、ただ空白だけが残る。その空白を、人は「神の不在」と誤解します。
 しかし、パウロはこう語ります。
 「見えるものは一時的であり、見えないものは永遠である」(2コリント4・18)。
 神の臨在は、感覚の内側ではなく、感覚の外側で働くことがあるのです。

「神はいない」と言える場所に、とどまる

 四旬節は、答えを急がない季節です。回復を急がない季節です。神がいないと感じる場所から、無理に抜け出さなくてよい季節です。むしろ、その場所にとどまることが求められます。
 エマオへ向かう弟子たちは、絶望の中で歩いていました。復活のイエスは、彼らの前に現れますが、彼らは気づきません(ルカ24・15-16)。イエスは、気づかれないまま、彼らと一緒に歩かれます。気づかれなくても、神は共に歩かれる。これが、聖書の現実です。

燃え尽きた場所が、信仰の中心になる

 信仰とは、確信を積み上げることではありません。確信が崩れたあとに、なお神の前にとどまることです。燃え尽きた場所は、信仰が終わる場所ではなく、信仰が中心に集約される場所です。
 神から最も遠いと感じる地点が、実は臨在の中心になる。この逆説を、四旬節は私たちに体で学ばせます。

次の一歩は、まだ求められていない

 この第二回でも、何かを理解しきる必要はありません。神が近いと感じなくてもよい。ただ、「遠いと感じているこの場所に、神はすでにおられるかもしれない」と、心のどこかに置く。それで十分です。
 燃え尽きた場所に、神は近い。
 それは約束ではなく、聖書が語り続けてきた現実です。

  • 記事を書いたライター
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大西德明神父

聖パウロ修道会司祭。愛媛県松山市出身の末っ子。子供の頃から“甘え上手”を武器に、電車や飛行機の座席は常に窓際をキープ。焼肉では自分で肉を焼いたことがなく、釣りに行けばお兄ちゃんが餌をつけてくれるのが当たり前。そんな末っ子魂を持ちながら、神の道を歩む毎日。趣味はメダカの世話。祈りと奉仕を大切にしつつ、神の愛を受け取り、メダカたちにも愛を注ぐ日々を楽しんでいる。

  1. 第2回「燃え尽きた場所に、神は近い」――神から最も遠いと感じる地点が、臨在の中心になる―― 四旬節黙想講話:「星の砂」

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