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週日の福音解説

与えられないしるしが示しているもの(年間第6月曜日)

マルコによる福音書 8章11ー13節

11 ファリサイ派の人々が出て来て、イエスを試そうとして議論をしかけ、天からのしるしを求めた。 12 イエスは、心の中で深く嘆息して言われた。「なぜ、今の時代はしるしを求めるのか。はっきり言っておく。今の時代には、決してしるしは与えられない。」 13 そして、彼らをそのままにして、また舟に乗って向こう岸へ行かれた。

分析

 この短い場面には、イエスの宣教における一つの決定的な断絶が凝縮されています。ファリサイ派の人々は「天からのしるし」を求めますが、その動機は理解を深めるためではなく、「試す」ためでした。つまり彼らは、神の働きを受け取る位置には立っておらず、評価し、判定し、支配する側に立とうとしています。しるしは信仰への入口ではなく、信仰を拒むための道具として要求されています。
 ここで重要なのは、彼らがしるしを求めた場面が、癒やしや教えがすでに十分に行われた後であるという点です。群衆の前で病が癒やされ、周縁の人々が回復し、生活の広場で神の国が現実として可視化されていました。それにもかかわらず、彼らは「天からの」しるしを要求します。つまり、目の前で起きている出来事を神の働きとして認める気はなく、自分たちが設定した基準に合致する証拠だけを受け入れようとしているのです。
 イエスが「心の中で深く嘆息された」という描写は、怒りよりも深い疲労と悲しみを示しています。これは議論に敗れたことへの落胆ではありません。神がすでに近づいている現実が、見ようとしない態度によって無効化されていることへの嘆きです。「なぜ、今の時代はしるしを求めるのか」という問いは、好奇心への非難ではなく、現実逃避への指摘です。しるしを求め続ける限り、目の前にある神の現実と向き合わなくて済んでしまうからです。
 イエスは「しるしは与えられない」と断言しますが、これは神が何も示さないという意味ではありません。すでに示されているものを「しるし」として受け取らない態度に対して、追加の証拠は意味を持たないという判断です。神の国は、条件を満たした者にだけ開示される謎解きではなく、近づいている現実です。その現実を拒む態度の前では、どれほど劇的な現象も空転します。
 最後にイエスは舟に乗って向こう岸へ去られます。ここには説明も説得もありません。これは逃避ではなく、境界線の明確化です。しるしを条件に信じる姿勢の前では、神の国はとどまりません。イエスが去るという行為そのものが、最大のしるしとなっています。神は、試され続ける対象としては留まらないということです。

神学的ポイント

・しるしの要求は信仰ではなく支配の試みである
 ここで求められているしるしは、理解のためではなく、神の働きを自分たちの基準で管理するためのものです。神学的に、これは信仰の姿勢と正反対です。

・神の現実はすでに示されている
 癒やしと教えが行われた後での「しるし要求」は、啓示の不足ではなく、受容の拒否を示します。神は沈黙しているのではなく、無視されています。

・しるしを条件にすると、神は常に不足に見える

 追加の証拠を求める態度は、どれほど与えられても満足しません。神学的に、条件付きの信仰は常に神を不十分な存在にしてしまいます。

・神の沈黙は拒否ではなく判断である

 「与えられない」という言葉は、罰ではなく、これ以上示しても意味がないという神の判断を示しています。

・去っていく神というしるし

 イエスが舟に乗って去られた行為は、神が試され続ける場から身を引くという宣言です。神の国は、条件を突きつける者の前には留まりません。


講話

 ファリサイ派の人々は、天からのしるしを求めました。しかし、それは神を求める叫びではありませんでした。彼らはすでに目の前で起きている出来事を、神の働きとして受け取るつもりがなかったのです。しるしを求めることで、判断を先送りにし、決断を避けることができます。信じるかどうかを決めなくて済むからです。
 イエスはその態度に、深く嘆息されます。怒りよりも重い沈黙です。神の国が近づいているのに、それを見ようとしない。癒やされた人が立ち上がり、共同体に戻っていく現実があるのに、それを「まだ足りない」と言われる。この嘆きは、神が拒まれていることへの悲しみです。
 「今の時代には、しるしは与えられない」という言葉は、神が何も示さないという宣告ではありません。すでに示されているものを受け取らない態度の前では、これ以上の証拠は意味を持たないという現実の指摘です。神の国は、条件を満たしたら現れるものではなく、すでに来ている現実です。
 そしてイエスは去られます。説明も、説得もありません。神は、試され続ける対象としてそこに留まりません。この去り方そのものが、強いメッセージを持っています。神は、信仰の対象であって、実験の対象ではないということです。
 私たちは、神に何を求めているでしょうか。納得できる証拠でしょうか。それとも、目の前にすでに差し出されている現実を引き受ける勇気でしょうか。しるしを求め続ける限り、神は常に「まだ来ていない」存在になります。しかし、与えられないしるしを受け止めるとき、すでに来ている神の国が、ようやく見え始めます。

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大西德明神父

聖パウロ修道会司祭。愛媛県松山市出身の末っ子。子供の頃から“甘え上手”を武器に、電車や飛行機の座席は常に窓際をキープ。焼肉では自分で肉を焼いたことがなく、釣りに行けばお兄ちゃんが餌をつけてくれるのが当たり前。そんな末っ子魂を持ちながら、神の道を歩む毎日。趣味はメダカの世話。祈りと奉仕を大切にしつつ、神の愛を受け取り、メダカたちにも愛を注ぐ日々を楽しんでいる。

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