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おうち黙想

第1回「フランシスコは、勝てた人生をやめた」〜聖フランシスコ年黙想講話〜

今回のポイント
 第1回は、「勝てる人生」をやめたフランシスコの転回を、挫折ではなく自発的な“降車”として捉え直します。彼は世俗的成功のレールに乗ったままでも十分に勝てたのに、そのゲーム自体が生む緊張と空しさを見抜き、勝ち続けることを前提にした生き方から降りました。そこにあるのは喪失の悲劇ではなく、「もう勝たなくていい」という解放です。
 私たちの側では、「有能でありたい」「正しいと思われたい」「成果で証明したい」といった霊的な勝負が、奉仕や信仰の名を借りて温存されていないかが問われます。疲れの正体が仕事量ではなく“勝ち筋”の緊張だと見抜くとき、神の前に小さくあることが土台になり、競争の土俵から降りる自由が開かれます。

1. 聖年の入り口で、私たちは何を脱ぐのか

 聖フランシスコ没後800年を記念するこの聖なる年。私たちは、アッシジの貧者を仰ぎ見て、何を学ぼうとしているでしょうか。
 通常、聖人の記念年といえば、その卓越した「徳」を称え、私たちも少しでもその清貧や愛徳に近づこうと、「付け足す」努力を考えがちです。しかし、この全6回の黙想で私たちが試みるのは、その真逆です。フランシスコの生涯を貫いていたのは、何かを成し遂げるための「足し算」ではなく、自分を縛り付けていたものから降りていく「引き算」のプロセスでした。
 総タイトルに掲げた通り、「フランシスコは、やめることで自由になった」のです。
 第1回となる今回のテーマは、彼の回心の核心に触れるものです。それは「フランシスコは、勝てた人生をやめた」ということ。彼は「負けた」のではありません。勝ち筋が見えていたレースの途中で、自らそのコースを外れたのです。

2. 「勝ち筋」の中にいた青年フランシスコ

 私たちはよく、フランシスコの回心を「放蕩息子が心を入れ替えた」とか、「金持ちが貧乏になった」という単純な劇的変化として捉えてしまいます。しかし、当時のアッシジという社会状況の中で彼が立っていた位置を思い描いてみてください。
 彼は、単なる「金持ちの道楽息子」ではありませんでした。父ピエトロ・ディ・ベルナルドーネの家業である衣服商を継げば、アッシジでも指折りの実業家になれる才能と社交性を持っていました。また、当時の平民階級が一段上のステータスを得るための唯一の道である「騎士」への階段も着実に登っていました。
 彼は、社会的な成功、家業の繁栄、そして周囲からの羨望と尊敬。これらすべてを「手に入れられる立場」にありました。決して、人生に詰んで、逃げ場がなくて神のもとに走ったのではないのです。
 むしろ、そのまま行けば「勝てる人生」のレールが、彼の前には黄金色に輝いて敷かれていました。フランシスコはそのレールの先にある景色を、誰よりも鮮明にイメージできていたはずです。

3. 「失った」のではなく「降りた」

 ある時、フランシスコの心に決定的な変化が訪れます。ペルージャとの戦争での捕虜経験、病、そして「主人に仕えるべきか、家来に仕えるべきか」という問い。
 ここで重要なのは、彼が騎士としての名誉を「失った」から落胆したのではない、ということです。彼は、「勝ち続けている自分」というゲームそのものに、虚しさを感じたのです。
 ●社会的成功というゲーム
 ●家業を大きくするというゲーム
 ●「若者の王」として尊敬を集めるというゲーム
 これらは、一度乗り始めたら、勝ち続けなければならないゲームです。勝ち続けるためには、常に他人と比較し、自分を大きく見せ、所有を増やし、守らなければなりません。
 フランシスコが回心のプロセスで捨てたのは、単なる「服」や「お金」ではありません。彼は「勝ち筋そのものから降りた」のです。
 世間から見れば、それは「ドロップアウト」や「挫折」に見えたでしょう。父親は怒り狂い、友人は彼を狂人だと思いました。しかし、フランシスコ自身の内面で起きていたのは、喪失による悲しみではなく、「もう勝たなくていい」という、とてつもない解放感でした。

4. 私たちの中に棲む「勝ち続けている自分」

 さて、ここからが私たちの黙想の本番です。 私たちは、フランシスコのように家を飛び出し、すべてを捨てて修道者になったわけではないかもしれません。あるいは、すでに修道誓願を立て、司祭として奉仕しているかもしれません。
 しかし、私たちの心の内側を静かに覗いてみましょう。 私たちは、「もう歩いていないはずのレール」の上で、いまだに勝ち続けようとしていないでしょうか。
 ●「もっと有能な司祭だと思われたい」
 ●「あの人よりも信仰が深い、あるいは知識があると思われたい」
 ●「自分の共同体や活動を、目に見える形で成功させたい」
 ●「誰からも批判されず、正しい人として尊敬されたい」
 これらはすべて、フランシスコが脱ぎ捨てた「勝ち筋の人生」の残像です。 私たちは、表面上は「神に従う」と言いながら、その実、神を利用して「自己実現」という名の勝利を収めようとしていないでしょうか。
 かつて追い求めた「世俗的な成功」という亡霊が、形を変えて「霊的な成功」という顔をして、今も私たちの心を支配していないでしょうか。

5. 責めない導入:その「疲れ」の正体

 もし今、あなたが何かに疲れているとしたら、その疲れの正体は「奉仕の多さ」ではないかもしれません。 「勝ち続けなければならない」という緊張感が、あなたを疲れさせているのではないでしょうか。
 「良い司祭であらねばならない」「立派な信徒であらねばならない」「期待に応えなければならない」。 それは、自分でも気づかないうちに自分に課した「勝ち筋」です。そこには「失敗」や「無能」の入り込む余地がありません。だから、休むことができず、常に自分を監視し、他人の評価に一喜一憂してしまいます。
 フランシスコが自由になれたのは、彼が「聖人として成功した」からではありません。 「成功しなくてもいい、ただ神の前に小さくあればいい」と、勝負の土俵から降りたからです。

6. 今月の黙想の問い

 この1月、2月の静かな時間の中で、神様の前で以下のことを問いかけてみてください。焦って答えを出す必要はありません。ただ、その問いを心に置いておくだけで十分です。
 1.私が今、一番「失うのが怖い」と思っている評価や立場は何ですか? (それは、あなたがまだ降りられていない「勝ち筋」かもしれません)
 2.私は、もう歩いていないはずの「過去の理想の自分」に、今も勝たせようとして無理をしていないでしょうか。
 3.「勝たなくてもいい、何者でもなくていい」と神様から言われたら、私の心はどのように反応しますか? ほっとしますか? それとも、恐怖を感じますか?

むすび:探検の始まり

 フランシスコの回心の入り口は、キラキラした宗教的陶酔ではありませんでした。 それは、ボロボロの服を着て、かつての仲間から石を投げられ、父親から縁を切られるという、「社会的敗北」を自分に許した瞬間に始まりました。
 彼は「勝てる人生」を捨てることで、初めて「神に愛されているだけの自分」という、壊れることのない土台を見つけたのです。
 今、この黙想を読んでいるあなた。 もう、勝たなくて大丈夫です。 あなたが必死に守っているその「勝ち筋」から一歩降りたとしても、神様はあなたをしっかりと受け止めてくださいます。
 フランシスコと共に、この「自由への探検」をここから始めていきましょう。

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大西德明神父

聖パウロ修道会司祭。愛媛県松山市出身の末っ子。子供の頃から“甘え上手”を武器に、電車や飛行機の座席は常に窓際をキープ。焼肉では自分で肉を焼いたことがなく、釣りに行けばお兄ちゃんが餌をつけてくれるのが当たり前。そんな末っ子魂を持ちながら、神の道を歩む毎日。趣味はメダカの世話。祈りと奉仕を大切にしつつ、神の愛を受け取り、メダカたちにも愛を注ぐ日々を楽しんでいる。

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