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カトリック入門

第233回 第二の掟「主のみ名は聖である」【動画で学ぶ】※レジュメ字幕付き

序)「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」(出20・7)
  「昔の人は、『偽りの誓いを立てるな…』と命じられている。しかし、わたしはいっておく。いっさいの誓いを立ててはならない」(申命記5・33~34)

1 主のみ名は聖である
*第二の掟は、主のみ名を尊ぶことを命じます。これは第一の掟と同様、敬神徳に属する掟で、特に聖なることがらに関する私たちのことばの用い方を規制するものです。
*神の啓示のことばの中には特別なものが一つありますが、それはご自分のみ名の啓示です。神は、ご自分を信じる者たちにご自分のみ名を明かし、ご自分の神秘の中で彼らにご自身を啓示なさいます。み名を知らせるということは、信頼と親密さとを表すことなのです。「主のみ名は聖である」ので、人間はこれを濫用してはなりません。愛に満ちた礼拝の沈黙のうちに。み名を記憶に留めなければならないのです。人はただ、み名に感謝し、み名をたたえ、み名に栄光を帰すためだけにみ名を口にすべきなのです。
*み名を尊敬するということは、神ご自身の神秘とその神秘によって生じるあらゆる聖なることがらとに払うべき尊敬を表すことなのです。聖なる感情というものは敬神徳に属します。
*ヘンリー・ニューマンの『説教集』の中にこんな言葉があります。
 「畏敬の念や聖なる感情などはキリスト教的なものなのでしょうか。それは疑う余地がありません。もし、私たちが至高の神を見ることができるならば、その思いは極めて強いものになるでしょう。神の現存を『実感』するならばこの思いを抱くでしょう。わたしたちは、神が現存しておられることを信じる度合いに応じて、その思いを強くするはずです。その思いを抱かないということは、神が現存しておられることを悟らず、信じていないことなのです」。
*信者は恐れることなく信仰を宣言して、主のみ名のあかしを立てなければなりません。宣教活動やカテケジスは、私たちの主イエス・キリストのみ名への礼拝と尊敬とに満ちていなければなりません。
*第二の掟は、「神のみ名の濫用を禁じます。すなわち、神やイエス・キリストのみ名、乙女マリアやすべての聖人たちの名をふさわしくない形で用いることをいっさい禁じます。
*神のみ名を口にして他人と交わした約束は、神の名誉や忠実、真実や権威をかけてなされたものなのです。これを守るのは、正義上の義務となります。守らなければ、神のみ名を濫用することになり、いわば、神を偽り者にすることになります。

2 冒瀆
*冒瀆は、直接に第二の掟に背くものです。それは、あるいは口で、あるいは心の中で、神に対する憎しみや非難、挑発などのことばを発したり、神をあしざまにいったり、かみへの尊敬に欠ける態度をとったり、神のみ名を濫用したりすることなどです。聖ヤコブは、「(自分たちに)与えられた(イエスの)尊い名を冒瀆している」(ヤコブ2・7)者を叱責しています。冒瀆の禁止は、キリストの教会をはじめ、聖人たちや聖なる事物などに対する悪口にも及びます。よこしまな行いを正当化し、人々を奴隷にし、拷問にかけ、あるいは死に至らしめるために神のみ名を持ち出すことなども冒瀆に当たります。ある犯罪を犯すために神のみ名を濫用することは、宗教を否定しようとする行為です。
 (例)「踏絵」
   ★キリシタン禁教令が始まった時代に、「踏絵」が始まった。十字架や聖母像などが描かれた踏絵を踏むことは冒瀆に値する。当時の信者にとってはとても重いものだった。
   ★1800年ごろ、佐世保の沖合にある黒島で毎年正月には踏絵が行われた。彼らは軽く踏んで、家に帰って回心の祈りを唱え、また信徒に戻った。次の世代に信仰を伝えるために。でも踏絵を踏むことは、どんなにつらかっただろうか。
*冒瀆は神やその聖なるみ名に払うべき尊敬とは相反するものであり、そのこと自体で大罪となります。
*たとえ冒瀆の意図はなくても、神のみ名を用いるののしりのことばは、神に対する不敬に当たります。第二の掟は、神のみ名を用いてまじないを行うことも禁じています。
*聖アウグスチヌスは『主の山上のことば』の中で次のように語っています。
 「神のみ名は、その偉大さと威厳とにふさわしい尊敬をもって口にされるとき、偉大なものとなります。またそのみ名は、崇敬とみ名を傷つけることを恐れる心とをもって口にされるとき、聖なるものとなります」。

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