十字架とはどういうものだったのでしょうか。十字架は奴隷に課せられ、単に残酷な死であるばかりではなく、恥辱をも意味する極刑でした。「木にかけられた死体は、神に呪われたものだからである」(申21・23)とか、「ヨシュアはその後、彼らを打ち殺し、五本の木にかけ、夕方までさらしておいた」(ヨシ10・26)とあるように、旧約聖書において残酷さや不浄の意味を含んでいました。
十字架につけられたイエスはどうだったでしょうか。十字架の周りにいる人たちの反応、軽蔑的表現はそれをよく物語っています。まず議員たちは「あざ笑い」、兵士たちはイエスを「侮辱」し、十字架にかけられた犯罪人の一人はイエスを「ののしり」ます。原文で調べてみると、「あざ笑う」という言葉は「エクムクテリゾー」が使われ、「冷笑する」「鼻であしらう」といった意味、「侮辱する」は「エネバイゾー」が使われ、「あざ笑う」「笑いものにする」「冷やかす」、「ののしる」は、「ブラスフェメオー」が使われ、「(神・神聖なものに対して)不敬なことをいう」という意味が込められています。イエスが十字架上で受けた軽蔑的な言葉が耳に響いてきます。
多くの人々がイエスに対して侮辱的な言葉をかける中で、もう一人の犯罪人は違いました。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と。十字架の周りにいる大多数はイエスを軽蔑していきますが、この犯罪人はイエスの姿の中に救い主を見ていきます。イエスは、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と。
これらのことを念頭において、パウロの言葉を味わうと興味深いものです。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」(一コリ1・18)、「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています」(一コリ1・22~23)、「このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです」(ガラ6・14)。
イエスの十字架を仰ぎ見ながら、救いの道を見つめたいものです。
