「神は遅れているようで、実は待っておられる」 これは、私たちの信仰生活における最も深い逆説の一つです。 第1回で見たように、“待たされる痛み”の中で私たちは神への信頼を問われます。 しかし今回は、さらに一歩踏み込みたいと思います。 ――神が遅れるのではなく、神が待っておられるのだということ。 神の沈黙は、私たちを見放した沈黙ではなく、私たちを準備するための沈黙なのです。
Ⅰ. 神はなぜ急がれないのか
私たちは、祈りの答えが「すぐに来ない」と不安になります。
人生の進路、病の癒し、関係の回復。どの願いにも「今こそ」と思う時があります。
けれども神は、あたかも何も起こらないかのように沈黙される。
それは無関心なのではなく、神が時間を尊重しておられるからです。
愛とは、相手の成熟を待つことでもあります。
強引に引き上げることはできても、相手が自ら立ち上がるのを「待つ」ことには別の深い優しさがあります。
神は、私たちが「理解する準備」「受け入れる準備」「応える準備」が整うまで、あえて沈黙される。
なぜなら、早すぎる恵みは、まだ受け止めきれない心を壊してしまうからです。
神が急がれないのは、私たちが愛の中で自由に応えるため。
神は私たちの自由を奪わず、共に成熟することを望まれる。
だから神は、沈黙の中で「待って」おられるのです。
Ⅱ. 神が準備しておられる時間
マリアの受胎告知を思い起こしてみましょう。
「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」
この言葉は突然の出来事のように見えます。
しかし、実際にはそこに至るまでに何世紀にもわたる神の沈黙と準備がありました。
アブラハムに始まる約束の系譜、ダビデへの契約、預言者たちの叫び、民の流刑、沈黙の四百年。
人間の歴史では“遅れ”にしか見えないその歳月のすべてが、神にとっては“整える時間”だったのです。
マリアが神の言葉を受け止めることができたのは、彼女一人の徳のゆえではありません。
長い歴史の祈りが、ひとりの女性の「はい」に結晶したのです。
つまり、神の遅れは、神が人間を共同体として育ててこられた記録なのです。
神の沈黙は、いつも“何かを育てる沈黙”です。
土の下で根が伸びるように、見えないところで神の働きは進んでいます。
人間が「何も起こっていない」と思う時、神は最も深く、見えないところで“備えて”おられるのです。
Ⅲ. 沈黙の時間が人を整える
神の遅さは、私たちを待つだけでなく、私たちを形づくるための時間でもあります。
たとえば、出エジプトの民は、約束の地に向かう途中で四十年の荒れ野を歩かされました。
神はなぜ、もっと短い道を示されなかったのでしょうか。
それは、奴隷の心を持った民が、自由の民へと変わるための時間が必要だったからです。
神の“遅れ”は、愛の教育的な遅れ。
神は「結果」よりも「関係」を育てたい。
だから、私たちの祈りの答えをわざと遅らせ、信頼が深まる隙間をつくるのです。
私たちは、“すぐ叶えられる祈り”しか信仰だと思っていません。
けれども、信仰の成熟とは、「まだ答えがないこと」に耐えられる心を持つことです。
沈黙の時間は、信仰が“依存”から“交わり”へと変わるためのゆりかごなのです。
Ⅳ. 神の遅れと「人の速度」
現代社会はスピード重視で動いています。
ニュースは数秒で世界を駆け抜け、情報は一瞬で古びていく。
私たちも同じリズムで神に接してしまいます。
「早く結果をください」「答えをください」「導きをください」。
けれども、神のリズムはそれとは違います。
神は時間を“圧縮”しません。むしろ“膨らませる”方です。
神の時間(カイロス)は、人間の時間(クロノス)の中にふと割り込む「永遠の息継ぎ」のようなもの。
待つことによって、私たちはこの“永遠の呼吸”を学ぶのです。
もし神が私たちのスピードで動かれるなら、私たちは神を“効率的な力”としてしか見なくなります。
しかし、神が遅れることで、私たちは神を“人格的な存在”として出会い直す。
遅れがあるからこそ、関係が生まれる。
それが愛の本質です。
Ⅴ. 「まだ早い」という神の慈しみ
私たちはしばしば、「今こそ神が動いてくださらなければ」と訴えます。
しかし神は、その叫びを聞きながら、なおも沈黙されます。
なぜなら、神は“適切な時”を誰よりもよく知っておられるからです。
たとえば、エマオへの道でイエスは、弟子たちの悲しみをすぐには癒されませんでした。
長い道を共に歩き、話を聞き、心を燃やす時間を通して、彼らの目を開かれたのです。
神の沈黙には、“心を整える配慮”があります。
即座の慰めよりも、深い理解を選ばれるのです。
神の「まだ早い」は、拒絶ではなく慈しみ。
私たちが“間に合っていない”のではなく、“まだ完成していない”のです。
神は、私たちが受け取るにふさわしい者となるまで、待ってくださいます。
だから、神の遅れは「罰」ではなく「育てる愛」。
私たちが沈黙の中で「聴く人」になるよう、神はあえて語られないのです。
Ⅵ. 神に「待たれている」私たち
ここで視点を反転させてみましょう。
神が遅れているのではなく、私たちこそ遅れているのではないでしょうか。
神の光はすでに昇っているのに、私たちの心がまだ夜の中にある。
神の声は響いているのに、私たちの耳がまだ閉じている。
神は私たちが気づくのを、静かに、永遠の忍耐で待っておられるのです。
待降節の黙想は、神を「待つ」季節であると同時に、神に待たれている自分を思い出す季節です。
神は私たちが愛に気づくまで、赦しに開かれるまで、真実の希望を受け取るまで、
――決してあきらめないで待ち続けてくださる。
その神の「遅さ」は、絶望の裏返しではなく、無限の信頼の証です。
私たちが変わると信じているから、神は急がないのです。
Ⅶ. 沈黙の中で聴く
沈黙は、空白ではありません。
それは“神の声が最も深く響く場所”です。
神の沈黙に耐えられないときこそ、
私たちは祈りを「言葉」から「聴く態度」へと変えるべき時です。
マリアは受胎告知のあと、すぐに走り回って布告することはしませんでした。
彼女は沈黙のうちに御言葉を宿し、命が形づくられるのを待ちました。
この「待つ沈黙」こそ、信仰の最も能動的な姿です。
神が語られないとき、私たちは「もう何もない」と思いがちです。
けれどもその沈黙こそが、神が“今”語っておられる方法なのです。
沈黙の中でしか聞こえない言葉、遅れてこそ意味を持つ恵みがある。
そこに気づいたとき、信仰は単なる希望ではなく、共に生きる知恵となります。
結び ― 神の遅さに身を委ねる
待降節の時間は、神が「間に合わない」季節ではありません。
それは、神が「私を整えておられる」季節です。
神の遅れは、私を見放す距離ではなく、私を包む余白。
私たちは急ぎたがる。
けれども、神は言われます。
「静まって、わたしこそ神であることを知れ。」(詩編46:11)
神の沈黙の中で、私たちは気づくでしょう。
待つということは、時間の浪費ではなく、愛の空間の創造なのだと。
神は遅れてくる方ではなく、深く待ってくださる方。
その方の遅さの中にこそ、最も温かな慈しみが息づいているのです。
