『アイム スティル ヒア』という映画を観ました。この映画は、1970年代の軍事政権時のブラジルで、元国会議員のルーベンス・パイヴァが逮捕され、彼の帰りを待つ妻のエウニセとその子どもたちを描いた実際に起こった作品です。この映画は、妻のエウニセは知人の弁護士やマスコミ関係者の協力や情報を得て、来る日も来る日も夫の帰りを待ち続け様子を描いています。そこには、必ず帰って来るという希望と信仰があったからでした。私たちが、愛する人を待つ時の姿は、いつ来ても迎える事ができる状態でいるということではないでしょうか。
きょうのみことばは、イエス様が弟子たちに「目を覚ましていなさい」と言われる場面です。このみことばの前には、「自分のためだけに財産を貯めた愚かな金持ち」がありました。そして、きょうのみことばは「恐れることはない、小さな群れよ。あなた方の父は、あなた方にみ国を与えるのを喜びとされる。」というみ言葉で始まっています。この「小さな群れ」というのは、イエス様をもとに集まってきた人たち(キリスト者)のことを表しているようです。ですから、イエス様は、おん父が私たちに必要なものをすべてくださるだけではなく、私たちがご自分の所にいることを【喜び】とされると言われています。
そのためにイエス様は、愚かな金持ちのようではなく、持ち物を売って、「自分のために、古びることのない財布を作り、尽きることのない宝を天に蓄えなさい」と言われます。私たちは、銀行や郵便局に口座を設けお金を蓄えています。イエス様が言われるみことばは、地上での口座ではなく、天の国の口座と言ってもいいでしょう。私たちが地上で行う【善行】は、すべてこの【口座】に蓄えられていくのです。イエス様は、「あなた方の宝がある所に、あなた方の心もある」と言われます。このみ言葉は、私たちの心の状態を振り返る良い黙想のヒントになるのではないでしょうか。
次にイエス様は、「腰に帯を締め、ともしびをともしていなさい。主人が婚宴から帰ってきて戸をたたいたら、すぐに開けようとして待っている人のようでありなさい。主人が帰ってきたとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いである」と言われます。この中にある「腰に帯を締める」と「目を覚ましている」というのは、弟子たちの姿を表しているようです。このことは、弟子たちがいつ帰って来るかわからない【主人(イエス様)】を待つように、キリストの再臨を待つ姿を表しているのです。
イエス様は、弟子たちに「すぐに開けようとして待っている人のようでありなさい」と言われます。この姿は、主人が帰って来られるのを今か今かと希望と喜びを持って待っている姿、強いては愛する人を待つ姿ではないでしょうか。イエス様は、弟子たち(私たち)が、ご自分がいつ来ても良いように相応しい心で待ち続けなさいと言われているのです。
パウロは、「目を覚ましていなさい。信仰に基づいてしっかりと立ちなさい。雄々しく振る舞いなさい。強くありなさい。あなた方の行いがすべて、愛を持って行われますように。」(1コリント16・13〜14)と伝えています。ここでも【目を覚ましていなさい】とありますし、「あなた方の行いがすべて、愛をもって行われますように」とあります。イエス様が言われる「すぐに開けようとして待っている」という中に、【愛をもって行う】という意味でもあるのではないでしょうか。
イエス様は、「主人は帯をしめて、その僕たちを食卓に着かせ、そばに来て給仕してくれる。……その僕たちは幸いである。」と言われます。この主人の姿は、普通では考えられないことです。イエス様は、主人であるご自分が給仕をして僕である弟子たちをもてなすほど愛してくださっているのです。おん父が「み国を与えるのを喜びとされる」のと同じように、弟子たちに給仕をされることを喜びとされるのです。
イエス様は、ペトロが「主よ、この喩えはわたしたちのために……」という質問に「……忠実で賢明な管理人とは、どのような人だろうか。主人が帰ってきたとき、そのように勤めを果たしているのを見られる僕は幸いである。」と言われます。ここでも、イエス様は、【主人】と【管理人、僕】との関係を話されます。イエス様が言われる「忠実で賢明な管理人」は、どのような「管理人」なのでしょう。それは、次に出てくる【不忠実な管理人】のようではなく、「主人の思いを知って用意をし、思いにかなうことを行なっている僕」ではないでしょうか。
きょうのみことばのテーマは、弟子たちの姿であり、私たちの姿をイエス様が教えてくださっているのです。イエス様は、私たちにご自分が来る(再臨)の日が、「盗人がいつやって来るかを知っていたら……思わぬ時に、人の子が来るからである」言われています。私たちは、イエス様が言われる【腰に帯を締め】【目覚めて】イエス様がいつ来られていいように用意がたらいいですね。