(序)
*対神徳は、キリスト者の倫理的生活の土台であり、源であり、これを特徴づけるものです。あらゆる倫理徳に生気を与え、活気づけます。神の子どもとしてふるまい、永遠のいのちに値する行為をすることができるように、信者の心に神から注がれたものです。それは、人間の諸能力のうちに聖霊がともにおり、働いておられるということの保証です。対神徳は三つあります。信仰、希望、愛です。
1 信仰
*信仰は対神徳です。この信仰の徳によってわたしたちは、神と、神がわたしたちに語られ啓示されたこと、また教会が信じなければならないこととして教えるすべてのことを信じます。神は真理そのものだからです。信仰によって、「人間は、自由に自分自身をまったく神に委ねるのです」。それゆえ、信者は神のみ旨を知り、行うように努めます。「正しい者は信仰によって生きる」(ロマ1・17)のであり、生きた信仰は「愛の実践を伴う」(ガラ5・6)のです。
*信仰という賜物は、信仰に反する罪を犯さなかった人のうちにとどまります。しかし、「行いの伴わない信仰は死んだもの」であり、希望と愛とを伴わない信仰は、信者を完全にキリストに一致させることも、キリストのからだの生きた一部とすることもありません。
*キリストの弟子は単に信仰を守り実践するだけではなく、これを公言し、確信をもってあかしし、広めるべきです。「すべての人はキリストを人びとの前で宣言し、教会に決して欠けることのない迫害の中にあって、十字架の道をたどりつつキリストに従う覚悟を決めておかなければなりません」。信仰を守りあかしすることは救いに必要です。
2 希望
*希望は対神徳です。この希望の徳によってわたしたちは、キリストの約束に信頼し、自分たちの力ではなく聖霊の恵みの助けに寄り頼みながら、私たちに幸せをもたらしてくれる天の国と永遠のいのちとを待ち望みます。
*希望の徳は、すべての人の心に神がともしてくださった幸福へのあこがれにこたえるものです。人間の行動を活気づけるさまざまな希望を吸収し、それを天の国を目指すように浄化し、失望から守り、見捨てられた状態の中で支え、永遠の至福の期待で心を晴れ晴れとさせてくれます。希望の躍動は自己愛から守り、愛の幸せへと導きます。
*キリスト者の希望はかつての選ばれた民の希望を踏襲し、これをまっとうするものですが、その起源と原型はアブラハムの希望にあります。アブラハムはイサクに関する多くの約束を神から受けましたが、彼の心は、イサクをいけにえにする試練によって浄化されました。「希望するすべもなかったとき、なおも望みを抱いて、信じ、……多くの民の父となりました」ロマ4・18)。
3 愛
*愛は対神徳です。この愛徳によって私たちは、すべてに超えて神を神ご自身のゆえに愛し、神への愛のゆえに隣人を自分自身と同じように愛します。
*イエスは愛を新しい掟とされます。弟子たちを「この上なく」(ヨハ13・1)愛されることによって、ご自分が受けている御父の愛を表されます。弟子たちは互いに愛し合うことにより、自分たちにも示されているイエスの愛に倣います。だからイエスは、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい」(ヨハ15・9)、さらに、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」(ヨハネ15・12)と言われるのです。
*キリストはわたしたちがまだ「敵」であったときに(ロマ5・10)、わたしたちへの愛のためにいのちをささげられました。キリストはわたしたちに、ご自分とおなじように敵をも愛し、もっとも遠くにいる人の隣人となり、キリストを愛するように、幼子や貧しい人々を愛することを求められます。
*使徒パウロはまた、愛がなければ「無に等しく」、どんな特別な賜物も、奉仕も、徳であっても、愛がなければ、「わたしに何の益もない」ともいいます。愛はあらゆる徳にまさるものであり、対神徳の中でも第一のものです。「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中でもっとも大いなるものは、愛である」(一コリ13・13)。