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カトリック入門

第146回 イエス・キリストの死【動画で学ぶ】※レジュメ字幕付き

*両親との別れはとても寂しいものです。
 私の父は67歳で亡くなり、司祭叙階の一年前でした。(1983年)
 母は2009年に亡くなり、司祭叙階25周年記念の二か月前でした。
 自分にとって身近な人が亡くなるのは寂しいものです。

1 イエス・キリストの死
*御父である神は、最愛の子イエス・キリストをこの世に遣わしました。イエス・キリストは神であり、人でもある。
*ベツレヘムで生まれ、飼い葉桶に寝かされます。貧しさの極みです。30歳から公生活が始まり、12人の弟子を選び、各地で宣教しました。病人を癒やし、奇跡を行い、多くの人々の好意を得ました。
*しかし、ユダに裏切られ、最後は十字架上で亡くなりました。当時、奴隷の値段であった銀貨30枚で売られ、極悪人の処刑方法であった十字架刑で亡くなっていきます。多くの弟子たちは自分たちも捕まるのではないかと不安になり、身を隠していました。十字架のもとには、母マリア、マグダラのマリア、ヨハネなど、数少ないものでした。
*十字架には二人の犯罪人がともに付けられます。そのうちに一人は、「お前はメシアではないか。自分とおれたちを救ってみろ」と侮辱します。多くの苦しみを担った中で、この言葉はどんなにイエスの心を傷つけたことでしょうか。しかし、もう一人の犯罪人は、お前は同じ刑罰を受けていながら、まだ神を畏れないのか。われわれは、自分のやったことの報いを受けているのだからあたりまえだが、この方は何も悪いことをなさってはいない」(ルカ23・40~41)と語ります。そして、「イエスよ、あなたがみ国に入られるとき、わたしを思い出してください」と言います。するとイエスは、「あなたによく言っておく。今日、あなたはわたしとともに楽園にいる」と。この言葉にどんなに慰められたことでしょうか。
*イエスの最後の言葉は興味深いものです。
 ルカは、「父よ、わたしの霊をみ手に委ねます」(ルカ23・46)と語り、父である神に委ね切った表現です。一方、マタイは「わたしの神、わたしの神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27・46)と表現しています。孤独の体験が絶頂に達した時でしょうか。イエスの十字架上での死は、孤独との闘いであったことを忘れてはなりません。

2 イエスの死から思うこと
*聖書の中で、旧約聖書のアダムと新約聖書のイエスとのかかわりで、パウロは次のように記しています。「一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです」(ロマ5・19)。つまり、イエスは死に至るまで従うことにより、多くの人の罪を担い、多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負い、自分のいのちを償いのいけにえとしてささげる苦しむ僕の役をまっとうされました。これは限りない愛に他なりません。
*十字架の死は、神と人との唯一の仲介者であるキリストの比類のないいけにえです。キリストはわたしたちのために苦しみを受け、その足跡に続くように模範を残し、弟子たちがそれぞれの十字架を背負って、ご自分に従うように促しておられます。イエスの姿を身近に目にした聖母マリアは、他の誰よりも緊密に御子イエスのあがないの苦しみの神秘にあずかられたのです。
*グレゴリオ聖歌に「Stabat Mater」という曲がありますが、聖母の悲しみをよく表現しています。
 Stabat Mater dolorosa, juxta crucem lacrimosa, dum pendebat Filius.
 訳:悲しみの御母は御子がかかる十字架のもとに、涙にむせびつつ立っておられた。

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