書籍情報、店舗案内、神父や修道士のコラムなど。

みことばの響き

見る目 年間第2主日(ヨハネ1・35~42)

 今日の箇所に「見る」という言葉が5回登場します。ギリシア語原文を併記していくと、「歩いておられるイエスを見つめて(エムブレポー)、『見よ(イデ)、神の小羊だ』」(1・36)、「イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て(テアオマイ)」(1・38)、「イエスが泊まっておられるかを見た(ホラオー)」(1・39)、「イエスは彼を見つめて(エムブレポー)」(1・42)というように、「見る」と訳されていますが、同じ用語は36節と42節だけです。

 例えば「エムブレポー」というのは、「目を留める」という意味があり、心の中まで見抜くような見方でしょう。「空の鳥をよく見なさい」(マタ6・26)の時、この「エムブレポー」が使われています。「イデ」は「見よ」「ご覧」の意味があります。「テアオマイ」は「見届ける」「観察する」の意味があり、「ホラオー」は「見る」「見える」の意味です。「見る」とはいえ、このようなさまざまな表現があります。

 最初に出てくる「エムブレポー」を使うのは洗礼者ヨハネです。二人の弟子が気づいたのではなく、洗礼者ヨハネがイエスをしっかりと見つめて、その後、弟子たちがイエスに従っていきます。洗礼者ヨハネの目に間違いはないと彼らは感じたのでしょう。また洗礼者ヨハネは、イエスの後に従う二人の弟子たちに対して何の咎めもしません。普通なら、自分の弟子が横取りされた気持ちになるのでしょうが、洗礼者ヨハネの心の広さが感じられます。またイエスが凝視する人はシモン・ペトロです。イエスはシモンを見つめた後、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言います。イエスの見方にはいろいろは角度があるのでしょうが、シモン・ペトロに対する目は、他の弟子たちには向けない鋭い視線があるのではないでしょうか。

 この箇所の大きなタイトルは「最初の弟子たち」ですが、「目」や「見る」視点で読んでいくと、また違った味わいがあります。

RECOMMEND

RELATED

PAGE TOP