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月刊澤田神父

「月刊 澤田神父」2022年6月号(使徒パウロ、再び表舞台へ)※字幕付き

回心後のパウロの歩み

 1月は25日が「聖パウロの回心」の祝日でしたので、使徒言行録がどのように聖パウロの回心を描いてるかを見つめました。その後も2月、3月と、使徒言行録をとおして、回心後のパウロの歩みについて考えました。使徒言行録によれば、パウロはすぐにダマスコ、そしてエルサレムで熱心に宣教活動を始めましたが、それまでの「迫害者」パウロが福音を宣言し始めたことは多くの人に受け入れられず、結果として、パウロは故郷タルソスに退き、埋もれた生活を送ることになります。
 4月も同じテーマで続きを話そうかとも思ったのですが、聖なる三日間にあたったため、受難の神秘について話しました。今月6月は、29日に聖ペトロ 聖パウロ使徒の祭日が祝われます。また、その翌日30日は聖パウロ修道会、そしてパウロ家族固有の祭日である使徒パウロの祭日です。そのため、わたしたちパウロ家族にとって、6月は全体が聖パウロにささげられた月です。さらには、6月11日は聖パウロとともに宣教司牧をおこなった聖バルナバ使徒の記念日です。
 そこで、今回は再び回心後のパウロの歩みについて話をしたいと思います。使徒言行録は、異邦人への宣教が広がっていく様子を次のように記しています。「ステファノのことから起こった迫害のために散らされた人々は、フェニキア、キプロス、アンティオキアにまで散っていったが、ユダヤ人以外の者には、誰にもみ言葉を語らなかった。ところが、この人々の中に、何人かのキプロス人やキレネ人がいたが、アンティオキアに来て、ギリシア人にも語りかけ、主イエスのことを宣べ伝えた。主の手が彼らとともにあったので、多くの人が信じて、主に立ち返った」(使徒言行録11・19-21)。こうして、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者が混在するアンティオキア教会が誕生します。
 それを伝え聞いたエルサレム教会はバルナバをアンティオキアに派遣します。バルナバは、エルサレム教会で「持っていた代金を売り、その代金を携えて来て、使徒たちの足元に置いた」(4・37)人物で、貧しい人々のための分かち合いを実践していただけでなく、パウロが回心の後にエルサレムに来たときも、これまでのパウロの迫害を知るキリスト者たちが恐れを感じる中で、パウロを擁護しました(9・26-27参照)。アンティオキアに派遣されたときも、「バルナバはそこに着き、神の恵みを見て喜んだ。そして、揺るがない心をもって、いつも主に留まっているようにとみなを励ました。バルナバは立派な人で、聖霊と信仰とに満ちた人であった。こうして、多くの人が主のもとに導かれた」(11・23-24)と記されています。
 さて、「その後、バルナバはサウロを捜しにタルソスに行き、彼を捜しあてて、アンティオキアに連れ帰」(11・25-26)りました。バルナバは、パウロを高く評価していたのでしょう。こうして、パウロは再び表舞台に帰ることになります。
 しかし、このアンティオキアの教会とは、ある意味でパウロの迫害の結果として生まれた教会なのです。使徒言行録は回心前のパウロについて記しています。「サウロはステファノの殺害に賛成していた。その日、エルサレムの教会に対する大迫害が怒った。使徒たちのほかはみな、ユダヤやサマリアの諸地方に散らされた」(8・1)。先ほど記した「ステファノのことから起こった迫害のために散らされた人々」(11・19)、すなわちアンティオキアに散らされて教会を設立したキリスト者は、パウロに迫害され、散らされた人々なのです。ところが、神はパウロがこのアンティオキア教会でキリスト者としての歩みを再開するようにお望みになったのです。
 神のお望みは深く、すぐに理解することはできません。そして、パウロの側としても、これを受け入れることは容易ではなかったでしょう。それは、アンティオキア教会の側にも言えることだと思います。お互いに傷つけ、傷つけられた者が信仰のゆえに受け入れ合うことができるのか……、いつの時代にも問われている難しいことですが、だからこそ、わたしたちキリスト者はキリストの十字架上の死を見つめながら、それを実践できるように尽力する必要があるのだと思います。

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