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カトリック入門

第134回 受肉【動画で学ぶ】※レジュメ字幕付き

*「受肉」という言葉は、ラテン語で、incarnatioと表現します。
 日本語では「肉を受ける」という感じですが、本来の意味は「肉において」「肉の中に」というように、神様はキリストを派遣しますが、ここにおいて、「神である方が私たちと同じように人間となられた」という意味を持っています。つまり、キリストは、神であるにもかかわらず、私たちと同じように人間となられたということです。
*聖書のテキストとしては、ヨハネ1・14「み言葉は人間となり」とか、フィリ2・6~8「キリストは神の身でありながら、神としての在り方に固執しようとはせず、かえって、自分をむなしくして、僕の身となり、人間と同じようになられました。その姿はまさしく人間であり、死に至るまで、十字架の死に至るまで、へりくだって従う者となられました」が参考になるでしょう。

1 キリスト教信仰の特徴
*神の御子イエス・キリストが真に受肉されたことを信じるのは、キリスト教信仰の特徴。「人となって来られたイエス・キリストを認める霊はみな、神から出たものです」(一ヨハ4・2)。
*こうした考えは、他の宗教にはないキリスト教の独自性、特徴です。
 「キリストは肉において現れた」(一テモ3・16)という確信です。

2 まことの神、まことの人
*イエス・キリストが一部分は神で一部分は人であるとか、神的なものと人間的なものとの雑然として混合体であるということではありません。神の御子イエス・キリストは、まことの神、まことの人です。
*異端の歴史として、グノーシス派の仮現説は、キリストの神性よりも人性のほうを否定するものだった。
*御父とは「別の実体ないし本質から造られたと主張したアリウス派の異端を排斥した。
*ネストリウス派の異端は、キリストにおいては人間としてのペルソナが神の御子の神的ペルソナに結合されていると考えた。これに対してアレキサンドリアの聖チリロと431年のエフェソの公会議では、「みことばは、そのペルソナのうちに理性的魂によって生かされる肉体をご自分と一つに結び合わせて人となられた」と公言した。

3 451年のカルケドンの公会議
*この公会議で次のように宣言しました。
 「私たちの主イエス・キリストは唯一の同じ子です。彼は神性を完全に所有し、同時に人間性を完全に所有します。真に神であり、同時に理性的魂と肉体とから成る真の人間です。神性において父と同一実体であるとともに、人間性において私たちと同一実体です。『罪を除いては、すべてにおいて私たちと同じです』。神性においてはこの世の前に父から生まれ、人間性においては、終わりの時代に私たちのため、また私たちの救いのために、神の母処女マリアから生まれました。」
*教会は、イエスはまことの神であり、同時にまことの人であると公言します。

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